「本能寺ホテル」

knockeye2017-01-22

 「本能寺ホテル」を観た。他愛もない話だけど、廊下を走っていく綾瀬はるかの迷いのなさとか、風間杜夫の佇まいとか、近藤正臣堤真一濱田岳っていうキャスティングが良い。興行成績もまあ良いようだ。
 改めて確認してしまったけど、映画を観るって経験は、映画のシナリオを黙読するのとは違う。だから、今回みたいに役者さんがよくて、演出がテーマを見失わなければ、映画を観る楽しみは損なわれないんだと思った。
 本能寺ホテルのヴィジュアルもロゴも良いと思う。
 わたくし、アニメはどうしても苦手。というのは、生理的に受け付けない絵ってのがあるので。ジブリのと、こないだの「君の名は。」は、大丈夫。攻殻機動隊も大丈夫。あくまで個人的な感覚で、損しているとも言えるだろう。「この世界の片隅に」は、キネマ旬報で一位なんだし、評判も良いのだから観に行きたいと思いつつ、まだ行ってないのは、あのポスターの絵が自分としてはNG。
 いくら評価が高くても、あのポスターヴィジュアルだと生理的に無理。無理していこうと思ったけどやっぱり無理。加えて、テーマソングが「悲しくてやりきれない」なのも、その選曲のセンスが「え?」って。「この世界の片隅に」ってタイトルも、なんかザラッとする。
 名作なそうなんで無理して観にいこうかどうか迷ってたんだけど、「本能寺ホテル」を観て吹っ切れました。名作でなくても観たい映画は観たいし、名作であっても観たくない映画は見たくない。
 こうの史代原作の映画では「夕凪の街 桜の国」を観た。あれもたぶんアニメだったら観なかったと思う。
 宮崎駿は、ジョン・エヴァレット・ミレイの《オフェーリア》を観て、「自分のやろうとしていることをはるか昔にやった人がいる」と言ったのだったが、時間軸方向に引き伸ばされたとしても、アニメもやっぱり絵だと思う。
 わたしは、絵だと感じられるアニメは大丈夫なんだけど、絵じゃなくて記号に過ぎないと見えるアニメがあって、それは生理的に無理。女の子という記号、花という記号、花を摘む女の子という記号。そうして記号がどんどん複雑化していくと、確かに物語になるけれど、それはイデオロギーというものだと思う。誰かの頭の中の妄想を記号で説明されるのを2時間観続けられない。
 絵という実体、役者という実体だから観る価値があるんだと思っている。
 映画だから、ドキュメンタリーだろうが、アニメであろうが絶対にウソでしょう。だからそのウソを形にしてほしい。形式にして提供してほしい。そうしてこそコミュニケーションが成立する。コンセプトを記号化しただけのものは、丸呑みするしかない。それは、コミュニケーションではなくプロパガンダだと思う。その意味でそれはアートではないと思う。
 言うまでもなく「この世界の片隅に」がそうだといってる訳ではない。観てないんだから。ただ、生理的に無理ってものはあるよなって話。