踏み絵の時代

knockeye2017-02-03

 昨日、シャルリー・エブドが、マホメットを侮辱したマンガは、フランス版の踏み絵だったんじゃないか、なぜなら、イスラム教徒がフランスで生きるつもりなら、あの絵を受け入れなければならないわけだから、と書いた。江戸時代のキリシタンがキリストの絵にちょっと足を乗せるだけのことが苦痛だったように、フランスのイスラム教徒にとってマホメットを侮辱されることが苦痛だとしても、フランス人は彼らにそれを強いようとしている。
 反論はできるだろう。差別的な表現も表現にすぎない。どんな理由であれ、表現の自由に制限を設けることは、自由を権威の下におくことになるだろう。ましてやこれはテロなのだから。
 確かに正論だが、その正論の背後にイスラモフォビアは身を隠すことができる。無制限な自由でなければ自由と言えないとして、それではなぜ「殺人の自由」が認められないのか。「殺人の自由」が認められるなら、テロを非難することはない。認められないなら、自由にも節度が求められるということになるだろう。
 エマニュエル・トッドは、
「日本は第二次大戦について考えることを少しやめ、江戸時代の数世紀にわたって平和であり続けた唯一の先進国だということ、日本の現実は平和だということを思い起こすべきではないでしょうか。」
と言うのだけれど、その日本の平和は「沈黙」の時代に直接つながっている。または、重なっている。長崎のキリシタンは幕末まで弾圧され続けた。
 江戸時代が平和であったことに異論はないけれど、その平和は血で贖われたものだったと言えないだろうか?。西欧人が大量の血で手に入れた自由の代わりに、日本人は少量の血で平和を手に入れたということではなかったかと思った。
 この議論が昨今の自由主義経済やグローバリズムへの批判につながっていくのは興味深い。まさに『グローバリズム以後』なのだ。
 しかし、野放図な自由を制限しようとしてうまくいく例は少ないと思う。というのは、そうすると結局、制限する側の既得権が肥大化するだけの結果になることはすぐに想像がつく。節度ある制限に期待するのも、節度ある自由に期待するのも、政治制度としての不確かさでは、大して違いがないと思う。