オルセーのナビ

knockeye2017-04-01

 三菱一号館美術館で開催されている「オルセーのナビ」展はこの春のおすすめ。
 ナビ派の研究は最近ようやく盛んになっているらしい。
 ポール・ゴーギャンナビ派というかどうか、すくなくとも少し前まではゴッホとともに「後期印象派」とか言われてた。マネやドガ印象派にくくるのとおなじく、なんとなくなあなあでゴーギャン印象派みたいな。
 それくらい印象派の存在が大きかったといえる。だが、今、ゴーギャンっていうと、ナビ派とかクロワゾニズムとかいうふうに括られることが多くなってきた。それだけ、ナビ派の存在が大きくなってきている。
 今回の展覧会を総監修した、ギ・コジュヴァルって人は2008年にオルセー美術館総裁に就任した。当初のオルセー美術館は、ルーヴル美術館が蔵する印象派の絵画を移転した、印象派の美術館ってイメージだったのが、今は、世界有数のナビ派のコレクションを誇る、まるでナビ派の殿堂みたくなっているらしい。ギ・コジュヴァルって人は、エドゥアール・ヴュイヤールのカタログ・レゾネを作成した研究者で「今では、ヴュイヤールこそ、フランス近代絵画の伝統の中で、もっとも偉大な画家だと思っています」とインタビューに答えている。
 こんなことを言う人は初めて。だけでなく、「エドゥアール・ヴュイヤール」って名前すら初めてに近いが、この名前は厄介だぞ。「成宮寛貴」もややこしかったが(「なるみや」か「なりみや」かいまだにわからないし、下の名前も、「寛貴」か「貴寛」か憶えるのに時間がかかったし、やっとおぼえたと思ったら消えるし)、「エドゥアール」か「エドゥワール」か、「ヴュイヤール」か「ヴュィヤール」か「ヴュイアール」か。ところで、ジャン=バティスト・カミーユ・コローのBaptisteの「p」はどこにいったの?。アマンダ・サイフレッドか、アマンダ・セイフライドか、はっきりしてくれ。
 ま、それはともかく、そんな風に、他人がちょっと「え?」と思うような熱量のある人は面白い。
 それともうひとつには、ナビ派の作品でいままで個人が蔵して一般に公開されていなかったものが公にされ始めたのも大きいと思う。
 たとえば、今回の展覧会ではじめて観て驚いた、モーリス・ドニの≪鳩のいる屏風≫は、生前、一度も公開されることなく、画家のアトリエで私的に使われていたのだそうだ。ドニは最近、どんどん好きになってきている。
 屏風は・ポール・セリュジエのものもよかったし、ピエール・ボナールが当初屏風にするつもりだったものもよかった。
 ヴュイヤールが壁の装飾のために描いた連作もよかった。こういう具合に、彼らの作品ははっきりと壁の飾りなわけである。なので。モチーフもごく自然にアンティミスム、身近な題材が対象になる。
 ルネ・マグリットは、パイプの絵の下に「これはパイプではない」と描いたが、だったらそのかわりに、何の説明も加えずともパイプに見えない絵を描けばよかったのではないか。パイプに見える絵を描いて「これはパイプではない」と書き加えなければならなかったのなら、それは「パイプではない」けれども、同時に「パイプの絵」でもなかった。そう考えると「パイプ」というタイトルでパイプの絵を描くってのは、案外、画期的かもしれない。もし、ルネ・マグリットが「これはパイプではなく、ただの壁の飾りだ」と書いていたら?。
 ポール・セリュジエの≪愛の森を流れるアヴェン川≫

は、1888年の夏、ポン・タヴェンでゴーギャンに師事を仰ぎながら描かれた。パリに持ち帰られた後、この絵は、ナビ派結成のきっかけになり、その後「タリスマン(護符)」と呼ばれるようになったそうだ。ポール・セリュジエの没後はモーリス・ドニが私蔵していた。
 この絵を一見してわかることは、この絵は、その後のナビ派が獲得しようとしつつ完全には手なずけられなかった、音楽性を手にしている。ナビ派というより、パウル・クレーの絵のようだ。今回の展示に、屏風が多いのも屏風という形式が持っている音楽性に惹かれていたせいだともいえる。
 ピエール・ボナールの展覧会もいくつか見てきたけれど、個人的にはナビ派のころの、つまり「日本かぶれのナビ」といわれていたころのボナールが好きみたいだ。
 今回の展示では、図録の表紙になっている≪クロケーの試合≫

とか、国立西洋美術館にある≪坐る娘と兎≫、

少し時代が下るけど≪働く人々≫

もまだ十分にナビ派だろう。
 このころのピエール・ボナールには、音楽性と言って言い過ぎならば、デザイン性が確実にある。それが軽やかな印象を与えるんだと思う。
 アリスティード・マイヨールが目を悪くして彫刻家になる前の絵も少しは知っていたけれど、ナビ派を意識してみたことはなかった。今回のこの≪女性の横顔≫

は、確かにそういわれるとナビ派に見える。
 マイヨールもボナールもドニもその後少しずつ変わっていくわけだけれど、ナビ派の時代には、みんな若々しく華やいだ空気がある。茶目っ気かもしれないし、うわついているかもしれないが、しかし、けしてアカデミズムになりようのない親密さがあり、生活にちょっとした楽しみを企てようとする善良さを感じる。