『終わりの感覚』

knockeye2017-04-21

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

 ジュリアン・バーンズブッカー賞を獲った『終わりの感覚』は、映画化されるそうなので、原作も読んどこうと。
 現代のイギリスが舞台で、60年代に青春を過ごした男性が過去をふりかえる独白。わたしは夏目漱石の『こころ』を思い出してしまった、多分よそでは言わない方がいいけど。
 おそらくテーマはぜんぜん違うし、話のスジも、三角関係の親友が自殺することしかカブってないが、この主人公が回想している60年代イギリスの社会が、『こころ』が描いた明治の社会と似ている。ビートルズのメジャーデビューが1962年であることを考えると、自分でも、何を言ってるんだろうと思うが。
 『こころ』の「先生」は、親戚に親の遺産の多くをだましとられて、今では、特に働かずに生活できる程度の資産しかなくなった、江戸から明治と移り変わる時代に、急速に崩れていく階級社会の末裔だった。

 10代の読者だった頃の私は、漱石のこういうところをほぼ無視していたと思う。たとえば『門』の主人公は、酒井抱一を手放そうと骨董屋とやりとりするが、酒井抱一を持っているってことは、喜多川歌麿を持っているってこととは、まったく意味が違う。「こころ」の主人公も「門」の主人公も、同じ階級に属していた、とか言いたいのではなく、重要なのは、漱石の主人公たちが、江戸の階級社会に確かに存在していた、ある文化を生きていたことだろう。
 『終わりの感覚』のエイドリアンとトニーの関係は、『こころ』の「K」と「先生」の関係にすごく似ていると思うのだけれどどうだろうか。この両者に独特のテンションをかけている核となる課題が、世俗的な成功でも野心でもないだけでなく、実は恋愛でさえもなく、道徳観というしかないことが、非常にユニークだと思うし、そして、それほどにユニークな点が似ているこの二つの小説には、何かしらの共鳴音を聞いてしまう。
 『こころ』の「先生」は、明治天皇崩御に殉じて自ら命を絶つ。この結末をわたしはずっと理解していなかったが、いま考えているのは、この人は自分の道徳に殉じたってことなんだろう。それは、明治=西洋化っていうステレオタイプな図式にはあてはまらない。
 イギリスの階級社会と民主主義は、現実には同じものだろう。両方とも彼らのオリジナルであり、彼ら自身の道徳観をその核に持っている。彼らの道徳観が、彼らの階級社会から、彼らの民主主義を導き出した。
 それと同じく、明治維新は、武士階級が所与の感覚として持っていたノブレスオブリージュが、西欧の圧力に対して導き出した解だった。
 惜しむらくは、明治の元勲たちが、そうした彼らの立ち位置を、明文化し、宣言できなかった、だけでなく、おそらく、彼ら自身、自覚的でさえなかった。「尊皇攘夷」と息巻いた舌の根も乾かぬうちに「文明開化」を謳歌する後ろめたさを「和魂洋才」と言い訳するのが関の山だった。
 しかし、明治の元勲たちにとって、もっと言えば、明治時代そのものにとっては、無意識でさえあったとしても、彼らの本質は真に道徳的だったというべきだろう。それは、明治の元勲たちが去った後、道徳が官僚的な欺瞞にすり替わることからも、逆説的に言えることなんだろうと思う。
 『こころ』の「先生」にとって明治天皇に殉ずることは、切実なことだった。恋愛のルールにおいては、「先生」にやましいことは何も無い。しかし、「K」と「先生」の殉じて生きている道徳観においてはそうではなかった。
 自分の道徳観に背いては生きていけないという感覚は、夏目漱石が『こころ』を書いた当時にも、一般的であったかどうかわからない。しかし、「先生」の魅力はこの人の道徳観にあるだろう。わたしが『終わりの感覚』を読んで『こころ』を思い出したのは、「先生」と似た魅力のある人物が21世紀の英国に回顧されている驚きだった。
 ニューズウイークにブレグジットについて書かれている記事を読むと、最近の英国はだんだん変わりつつあるのではないかとも言われていたが、ノブレスオブリージュというセンスは、階級よりも教養に結びついているのだろうと思う。階級社会を礼賛するつもりはない。渡辺崋山は飢饉の時1人の餓死者も出さなかった為政者であったが、そんな彼を切腹に追い込んだのも階級社会だったに違いない。
 ただ、今の日本に、ノブレスオブリージュといったセンスのある人物やコミュニティがあるのかと言えば、おそらくないわけで、江戸時代には日本にもあり、英国には今ももあるそういう感覚がなぜ今の日本にないのかは、いつも不思議に思っている。