劣化していく「リベラル」たち

knockeye2017-05-11

 先日の週刊現代青木理のエッセーがあり、「共謀罪成立は『平和ボケ』だ」とか書いていた。
 意見そのものには特に反対しないが、「平和ボケ」などと古色蒼然とした表現が、はたして今更「有効」なのか疑問に思う。「平和ボケ」という言葉は定義のはっきりしている言葉ではないと思う。広辞苑に載っているかどうか知らないが、そもそも、その意味を広辞苑で調べようとは思わない言葉だと思う。
 どちらかというと自嘲であったり揶揄であったり、いずれにせよジョークの意味合いの強い言葉だと思っていたのだけれど、それをこの人は記事の見出しに使っている。賞味期限の切れかけたひと昔のジョークを大真面目に使っている。本気で大丈夫なのかと心配になる。
 最近、まともな書き手だと思っていたジャーナリストが「安倍応援団」なんて言葉を使っている記事を見てがっかりした。いよいよ旧ジャーナリズムも退場の時期が近いのかという予感を感じている。いうまでもないはずだが、どんな意見であっても、それを書いている誰かが「安倍応援団」だとか、「プロ市民」だとか、「在日」だとかではなく、意見そのものについて反論なり賛成なりを書くべきだ。そうでなければその文章はどんな議論にもつながらず、ただ党派的な罵り合いを誘発するだけだからである。
 ジャーナリズムの役目は、議論を喚起することのはずだった。有無を言わさぬお題目を掲げることは、ジャーナリズムというより、教条主義というべきだった。こんなことは、素人がブログで書くようなことではなかったはずだが、自分が気に入らない意見に対しては、やれ「安倍応援団」だの、「市場原理主義者」だの、「ネオコン」だの、レッテルを貼る。それだけが、この国で「リベラル」を名乗っている人のできる唯一のことらしい。そして、自分と考えが違う人が増えると、世の中が「右傾化」しているという。これは、議論をしようという人の態度ではなく議論を抑え込もうとする人の態度だと思う。たぶんこういうことを「リベラル」とは言わないはずだと私は思ってきた。
 日本の自称「リベラル」はこれからどんどんダメになっていくだろうと思う。その分岐点は二年前に「集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案」を安倍政権が提案したとき、それを「戦争法案」とする言い換えが行われた時だったと思う。
 「集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案」に反対であれば、小さな芽のようなものであっても、そこから議論が生まれたかもしれない。しかし、「戦争法案」反対からは「怪気炎」は発生するかもしれないが議論は生まれない。
 今でも思い出すけど、その当時、上野の駅前で「戦争法案反対」というのぼりを立てて署名活動している人がいた。ついまじまじと顔を見てしまった。「戦争法案」という法案はないのである。ないものにどれだけ「反対」をわめいても何にもならない。誰も恩恵を受けない代わりには、安倍政権も痛くもかゆくもない。仲間内で盛り上がるだけである。そして多分それでよいと思っているのだろう。ただ反対するだけ、ただ批判するだけ、それに慣れきってしまって、自分たちの言説が有効か無効かなんて気にかけたこともない。ひたすらしぼんでいくだろうと思う。
 政権に対して対立軸がないことはもちろん不幸なことだ。小池新党や橋下徹に期待が集まるのもそういう心理からだろう。いずれにせよ民進党に期待するって人がどれだけいるか。失われた十年とか二十年とかいうことがあるけれど、それはまさに民進党のためにあるような言葉だろう。