『サイコパス』

knockeye2017-05-30

サイコパス (文春新書)

サイコパス (文春新書)

 この本はすごいベストセラーになってるみたい。
 サイコパスって言葉はもともと犯罪捜査の現場で、ちょっと、ふつう私たちが、こういうのが人間性だろうとか、人間的な感情だろうとか、漠然と考えてる基準では考えられない、非人間的としか言いようのない犯罪者が現にいて、そういう人たちを呼んでいた言葉だったそうなんだけど、それが最近の急速な脳科学の進歩で、そういう犯罪者たちの脳を調べると、器質的にも特徴があるってことがわかったそう。
 こういう考え方は、安直に差別につながりかねない危険をはらんではいる。ただ、サイコパスは100人にひとりはいるそうなので、そうなると、けっこうざらだし、それがみんな犯罪者というわけでもなく、他の99人とは感情の回路が違うってだけで、今更、他人と自分が違うって気づいてショックを受けている場合でもなく、だからどうしたの?って気がしないでもない。
 サイコパスでなくても犯罪者はいるし、サイコパスでなくても質が悪いのもいるだろう。
 織田信長スティーブ・ジョブズサイコパスだったんじゃないか、みたいな推測が書かれていたけれど、サイコパスにはそういう正の面もあるそうだ。進化論的には(こういう表現も差別につながりそうなきわきわな表現だが)、100人にひとりっていう、まあまあ高い割合でサイコパスが生存しているかぎり、その存在が長い進化の過程で淘汰されなかった理由もあることになるという、その論も説得力があると思う。
 しかし、日常的にいかにも安易に使われそうな、そんなレッテルの問題よりも、もっと深刻なのは、私たちが伝統的に、「人間的」とか「人間性」とか言い慣わしてきたことどもは、単に、脳の器質的な差異にすぎなかったってことになる、そのことの方だろう。この著者はこう書いている。

人間が持っている性質は、天から与えられたというような詩的なものではなく、種として生き延びるのに便利だったからこうなっているにすぎません。

 となると、ちょっと困ったことになるのは、善悪、正邪といった価値基準自体が「詩的なもの」にすぎなくなるのではないかってこと。そうなると、そもそも、常ならぬ残虐なサイコパスの犯罪も、善悪で測ること自体が無意味だってことになる。
 というのは、善悪ってのは、サイコパスではない100人中99人の人が「それはやっちゃいかんだろ」とか「それはいくらなんでもひどいだろ」って、漠然と思ってたことにすぎないわけで、サイコパスの存在は、人類の99パーセントのそういう共同幻想は、種の保存に必要だったに過ぎなくて、その意味では、1パーセントのサイコパスがそんなこと屁とも思わないこともまた、種の保存に適応的だったにすぎないってことを、否応なく突きつけてくる。
 つまり、善悪ってのは、必要ではあるけれど、幻想にすぎない。むしろ、そういう善とか正義とかの幻想が暴走すると、ナチズムとか戦時中の日本軍の残虐行為なんかにつながるのを、私たちは間近に見たわけである。
 そういった二十世紀の悲劇を経験した私たちは、善とか正義とかを聖域から引き下ろさなきゃならない。善を悪の上位に置くのは間違っている。善と悪を決めてくれる神とか閻魔大王のような存在を想定するのではなく、どっちが、というより、どうすればスマートかって選択をつねにし続けなければならないだろう。白か黒かではなく、どのくらいのグレーがしっくりくるのかっていうことに頭を絞っていかなくてはならないのだろう。
 最近、子供がツツジの蜜を吸ったってブログの記事に、窃盗罪に当たるとかいって批判した人たちがいて、そのブログを書いた人が謝罪したそうなんだけど、そういうの不快に感じる感じ方の方が正しいと思う。
 江戸時代には、三方一両損とか、杓子定規に言えば1ミリも正しくないんだけど、関係する全員が納得できる知恵が、むしろ貴ばれていた。善とか正義の定規を振り回しているのは幼稚な迷惑行為だと思う。