黒塗りの排除は典型的なドグマティズム

 教条主義、あるいは、ドグマティズムとは何か。コトバンクによると、デジタル大辞泉には「状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度。」とあり、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典には「哲学上では定説主義や独断論をさすが、マルクス主義理論では実践による検証を怠り,マルクス、レーニンらの教義を無批判に盲信するような知的怠惰をさす。」とある。

 なので、今回の場合、当該の行為自体に、悪意も差別感情もないと承知しながら「黒塗りは差別だとされている」という「特定の原理・原則」に固執し、まったく文化背景の異なる社会での出来事にそれを適用しようとしたわけなので、典型的なドグマティズムと言える。

 ドグマティズムは、大辞泉にあるように、教条主義のほかに、定説主義、独断論とも。独つの定説ですべてを断じるわけだから、教条主義者は議論をよせつけない。黒塗りは何故だめなのかという問いに対する答えとして、ダメなのが国際標準だからだというのは、ちょっと聞くと理にかなっているように聞こえるものの、実のところは、ダメだからダメと言っているだけの完全な循環論だ。

 今回のケースの異常さは、発言者自身が、このケースに差別感情も悪意もないと知っているのに糾弾していること。まさに「原理・原則に固執する応用のきかない考え方」だろう。

 そしてこれも繰り返しになるけど、一番重要なのは、黒塗り=黒人差別ではないわけだから、黒塗りを排除したところで、黒人差別の排除にはつながらない。実際、黒塗りがタブーとされているアメリカでこそ、毎日のように、黒人と白人が殺しあっている。そういう自国の状況を顧みず、そんな国の標準とやらを、歴史的にも地理的にもほとんど黒人差別と接触のない日本に強要しようとしている。まさに「実践による検証を怠った知的怠惰」だろう。何が「国際標準」だ。

 国際標準だろうが、ただの思い付きだろうが、議論を排してはならない。常に議論に開かれているべきだ。

 黒塗りが廃されている国の警官が黒人を殺して無罪放免。黒塗りが平気な国で黒人差別がほとんど問題にならないのなら、黒塗りを排除すること自体が間違いである可能性が高い。

 黒塗りを不快に感じる人がいるかぎりやめるしかないという議論を見かけたが、それこそ差別を助長する考え方だ。黒人を不快だと感じる人がいたら黒人は退席しなければならないのか。私はそうは思わないが、この論理だとそうなる。

 差別を乗り越えようとしてきた努力に逆行しているみたいな理論も納得できない。なぜなら、まったく乗り越えてない。乗り越えてないじゃないか。トランプを大統領に選んでるじゃないか。メキシコ国境に壁を作って、イスラエルの首都をエルサレムにして、オバマが実現したイランとの和解もキューバとの和解もぶち壊してる、そういう大統領を選んだ国の標準に合わせてもロクなことになるか。

 ほんとバカじゃないのか。大みそかのお笑い番組で、日本のお笑いタレントがアメリカのコメディアンのマネをしたってだけだぞ。暇だな。