「無意識の差別をなくす」だって?

 黒塗り問題で数字が稼げるとわかったのか、いつまでも引っ張って議論している。
 呆れたんだけど、日本人の「無意識の差別」が問題だとか言い始めている。「無意識」の意味を分かってるんだろうか。「無意識の差別」はジェダイ・マスターにでもならなければ防ぎようがないだろう、なぜなら「無意識」だから。
 「無意識の差別」なんて存在しない。差別意識が差別なんであって、それ以外のことは差別ではない。いいかえれば、差別が社会的な問題であるそのポイントは意識的な差別にあるのであって、「無意識な差別」なんてものにはない。
 仮に「無意識の差別」というものがあったとして、それを禁止する社会に住んでいたら、どういうことが起きるか。だれかが、あなたの無意識を常に監視していなければならなくなる。あなた自身ではコントロールできないのが「無意識」だから。そこで、あなたが何気なく街を歩いていると、エディー・マーフィーのようなアメリカン・ポリスが立ちふさがって、「今、お前は俺を無意識に差別した」と言って逮捕されるのだ。この人たちはそんな社会を実現しようとしている。私ならそんな社会に住むのはごめんだ。
 「無意識な差別」ということを視点を逆転してみればよいのではないか。それは、単に「被害妄想」というだけのことである。今回のケースを見れば、浜ちゃんがエディー・マーフィーをマネをする、それが全く似合っていない、その落差が笑いになるのだから、笑いの構造を考えても、黒人差別どころか、むしろ、浜ちゃんの方が卑下していなければ、笑いにならない。
 まったく差別意識のないそんな行動の切れ端をつかまえて「無意識の差別」だとかいうのを、「被害妄想」といって何か問題があるか。さもなくは、以前も書いたとおり、典型的なドグマティズムだ。
 誰かが「日本人に差別意識がないというのは間違いだ」とか、元NHKらしい牽強付会を述べていたが、誰がそんなことを言った?。世界中のどこでも差別のない国なんてないだろう。しかし、日本には黒人差別の例は比較的にまれだろう。なぜなら、そのチャンスがほとんどなかったわけだから。ないものまであることにして「差別だ」と言ってバッシングすることが正しいのか。それが差別の解消につながるのか。
 吉本芸人のアントニーが、「やっぱ人間って、自分と違うものを見たら『あいつ違うぞ』って言いたくなる。それをいまさら、偽善者ぶって『こうあるべきだ』って言っている人が、僕は『嘘じゃん』って思っちゃう」
と発言している。
 また、2015年ミス・ユニバース世界大会日本代表の宮本エリアナは「日本人としての立場からすると不快には思わなかったし、面白かった。黒人としては批判されるかもしれないなと思ったが、悪意のなかった浜田さんや番組が叩かれるのは違うと思う」という意見だった。
 このふたりの意見が私には腑に落ちるがどうなんだろうか。
 差別ということを言えば、お笑い芸人差別、関西人差別ということも厳然としてある。阪神淡路大震災の時に「関西の人は何でもお笑いにするから」みたいな発言をして降板させられたコメンテーターがいた。さすがに大震災のときにこの発言はひどすぎるのだが、この種のことは関西人は常に言われ続けている。だからといって、いちいちそれに抗議しないだけのことだ。
 某地方都市で働き始めた時、私が関西人だからというだけで「まさか阪神ファンじゃないだろうな」と言って脅しに来た巨人ファンがいた。関西人として生きている人ならこんなエピソードのひとつやふたつはみんな持っているだろう。某有名映画監督が「大阪人って・・・」で始まるモロなツイートをしているのを見たこともある。
 バナナマン日村勇紀が握手会でいきなりビンタされた事件もあった。芸人ではなく、NHKのアナウンサーならこんなことが起こるだろうか。島田紳助中田カウス週刊新潮誌上でまるで犯罪者のような報道をされている。
 今回の黒塗りに批判的な発言をしている記事には、それに便乗して、タイキックされた「ベッキーがかわいそう」みたいな発言をしたものもあった。いうまでもなく黒人差別とは何の関係もない。それどころか、不倫なんて罪でも悪でもなく、当人同士の問題にすぎないのに、それを叩いて叩いて叩きまくったのは誰だったんだろうか。タイキックは演出に過ぎない。それを、浜ちゃんが黒塗りでたたかれてるとなると便乗して、手のひらを返したように同情して見せるのはどういうことなんだろうか。
 「無意識の差別」などということを、もし言うなら、それを言っている人の心にも「無意識の差別」はあることになる。しかし、それを言ってどうなるのか。くだらない議論である。

 
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