寛永の雅

 山田芳裕の『へうげもの』が遂に完結しましたな。
 マンガはあんまり手に取らないんだけど、これは全巻読破いたしました。
 千利休じゃなく、その弟子で大名茶人である古田織部を主人公にとったことで、そのころ数寄と政がどんなふうにかかわり合っていたかがよく分かった。
 茶入ひとつが国ひとつと同じ値打ちがあったとかいうその時代の価値観について、なるほどこういうことかと腑に落ちたのは、このマンガを読んでからだった。
 日本という小さな国が、さらに小さな国に群雄割拠していた時代、一国一城の主といったところで、明日には河原に打ち首を晒すかしれない不確かな時代には、茶道具の大名物、たとえば付藻茄子の茶入などは、国なんかよりはるかに確かな輝きだったことだろう。
 そして、その感じは、今の日本人の不安感とけっこう似通っているんだと思う。
 歴史に取材しながら、マンガらしく大胆に史実を書き換えつつ、それでいて、なにかしら「マンガ的真実」とでもいうべき説得力を持っていた。
 「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」は芭蕉の俳句なんだけれど、このマンガでは、明智光秀の辞世の句として使われていた。BSマンガ夜話でも紹介された名シーン。
 そのほかにも、このマンガの加藤清正は、なぜか具志堅用高に似ている。これについては、前にも書いたけど、東京国立博物館加藤清正肖像画を見た時に笑った。
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 ホントかと思えばウソ、冗談でしょうと思ったらホント、虚実のあいまを縫って見事に走り切った名作でしたね。
 サントリー美術館で「寛永の雅」てふ展覧会が始まった。これは、古田織部の次の世代、小堀遠州や金森宗和の時代。『へうげもの』の余韻で見ると、なかなか感慨深いものがありますです。
 わたくし、むかし、滋賀県の水口というところに住まいしていたことがありました。そこにある大池寺という寺の庭が、小堀遠州の作庭でして、「綺麗さび」といわれる大刈り込みのサツキが枯山水に浮かぶ蓬莱庭園。立派な大仏もあり、鄙にはまれな寺でした。
 そのころ自分で撮った写真もどこかにあると思うけど、今は見つからないので、適当に拾って貼っときます。

 今だとこれはなかなか「インスタ映え」するってやつでしょう。
 図録に「寛永文化」についての熊倉功夫の文章が寄せられているが、「寛永文化」というものがあるとすれば、そのアイコンはやはり後水尾天皇で、そのランドマークは修学院離宮ということになるのだろう。
 大池寺の蓬莱庭園を観てもわかるように、この時代の「綺麗」という美学は、後の世ならモダニズムと言われたものかもしれない。野々村仁清のうつわもそうだし、楽家三代の道入、別名「ノンコウ」の楽茶碗は、楽家歴代の茶碗の中でも異彩を放っている。
 横浜そごう美術館で「今右衛門の色鍋島」っていう展覧会があった。鍋島は鍋島藩の藩窯で、幕府への献上品として焼かれたために、ほとんど工業製品みたいな精密さが特徴的で、それは現代の今右衛門にも受け継がれていると見えた。十四代の開発したプラチナ釉なんて、楽焼にはない発想なのである。

 なかでもカラーの花を模して大胆に切り込みを入れた≪色絵薄墨墨はじき海芋文茶盌≫は、お点前のときに茶がこぼれないぎりぎりまで切り込んでいるそうで、その緊張感が鍋島らしかった。

 また≪雪花墨はじき雪文茶盌≫は、淵に沿って三つの円い穴があいている。

現代的だなと思っていたのだけれど、野々村仁清の≪白釉円孔透鉢≫は

これですから。何を入れるんでしょうね。