三菱一号館美術館でルドンの展覧会が始まっているが、今回の呼び物は、この美術館の所蔵で「グランブーケ」と呼ばれる、壁画の一枚がある、その「グランブーケ」とともに、ドムシー男爵の食堂の壁面を飾っていたすべての壁画が、一堂に会して展示されている。
オディロン・ルドンの年齢とか年代とかあまり考えたことがなかった。時代と関係のない特異点だと思っていたので。
クロード・モネと同じ年に生まれたそうだが、そう言われると確かに意外。なんとなくもっと年代が降ると思っていた。
建築の道に進むべくエコール・デ・ボザールを受験したが失敗、その後、パリのジャン=レオン・ジェロームの画塾に登録したがすぐに辞めて帰郷した。
ジャン=レオン・ジェロームは、この時代の画家のエピソードにときどき登場する。たとえば、ギュスターヴ・カイユボットは、自身も印象派の画家であったが、同時に印象派の画家たちのパトロンでもあって、彼らの絵の多くを所蔵していた。その所蔵品を、ルーブル美術館に飾ることを条件に、国家に遺贈する遺言を残して、45歳で急逝したが、これに反対の論陣を張ったのが、ジャン=レオン・ジェローム。
結局、没後、2年間もすったもんだした挙句、38点のみ受け入れることで決着した。今から振り返ると、ルーブル美術館は億単位の大損をしたことになる。
ジェロームは、写真が将来自分の絵にとってかわるだろうと、写真を歓迎していたそうだが、そう聞いて彼の絵を見ると、おそらく写真を参照しつつ描いているだろうと思われる。それ自体、珍しいことではないが、構図も写真そのものというのは珍しいのではないか。ずっと忘れられた存在だったが、今また人気が出ているそうだ。「ゲームの絵みたい」ということらしい。ゲームの絵って、非現実的な世界を写真みたいに描くわけだから、ありもしない奴隷売買を扇情的に描いたジェロームの世界そのもの。往時は新古典派と目されていたが、その物語が、時代が変わって、キッチュに見えるってことである。
ルドンの絵は、印象派以上に、ジェロームとは対照的に見える。印象派の画家といって、ひとくくりにできるものでもないが、彼らは対象をどう捉えるかが最大の関心事だった。たとえば、モネがまさにそうで、《死の床のカミーユ》などは、いま臨終を迎えたつれあいカミーユの「もはや動かぬ顔に死が押しつけた連続した色合い」を写し取ろうと、狂ったようにスケッチブックに筆を振るい続けた。
しかし、ルドンのモチーフはそもそも存在していないか、存在したとしても何かの証しとして存在していた。ルドンはごく若い頃の習作からすでにそうしたサインを探し求めているかのように見える。
個人的には、ルドンといえばこの
『夢想(わが友アルマン・クラヴォーの思い出に)』6.「日の光」。
これはけして写真には写らないだけでなく、ルドンでなければ絵にも描かないだろう。でも、これが何なのかということについて、あれこれ言われるのをルドンは嫌ったらしい。「アルマン・クラヴォーの思い出に」という、アルマン・クラヴォーは植物学者だったが、ボードレールやエドガー・アラン・ポーをルドンに紹介したのは彼だそうである。ちゃんとした学者で「車軸藻」の研究で知られていたそうである。
ここに詳しいことが書いてあった。帰郷後絵を学んだロドルフ・ブレスダンについても、ここを参照されるとよい。