沢田教一展

戦場カメラマン沢田教一の眼―青森・ベトナム・カンボジア1955-1970

戦場カメラマン沢田教一の眼―青森・ベトナム・カンボジア1955-1970

 沢田教一の写真展を横浜高島屋に訪ねた。
 沢田教一は、昭和11年生まれで、9歳のとき、青森の大空襲で家を焼かれた。
 ベトナム戦争

この写真でピューリッツァー賞を獲得したのは1966年、空襲で家を失ってから21年しか経っていない。まだ、9歳のときの戦争体験を忘れているはずがない。そう思ってこの写真を見ると、なんともいえない気持ちになる。沢田はピューリッツァー賞受賞のあと、この写真の家族を探して、賞金の一部を渡したそうだ。
 それでも、長く戦場にいると人の死に慣れてしまいそうで怖いとも漏らしていたそうだ。
 沢田教一は、当時、アメリカの通信社だったUPIの所属としてベトナムに従軍していたわけだったが、UPIから派遣されていたわけではなかった。日本で内勤だったのを、休暇を利用して自費で渡航した後、英語力と写真の技術で、そのまま従軍カメラマンになった。
 だから、カメラも三沢基地のカメラ店で働いていたころの中古のライカM2とローライフレックスで、上の写真も135mmレンズで撮っている。
 135mmレンズってのは、ちょっとカメラを使った人なら分かると思うが、中望遠と言われるもので、猫なんかを撮るときによく使う。
 その程度のレンズで戦場を撮ろうとすれば、文字通り「従軍」せざるえない。軍のヘリコプターに同乗して前線に降り立ち、隊と行動を共にする。
 戦争末期のフエの市街戦を撮った写真を見ると、全く兵士と目の高さで撮っている。だから、迫力のある写真になるし、何より、兵士が自然な表情を見せてくれるのだと思う。ゲルダ・タローがスペイン内戦を撮った写真とアングルが似ている。
 第一次大戦のオットー・ディックスは、実際に兵士だったが、カメラではなくスケッチだった。ロバート・キャパが従軍したノルマンディー上陸作戦の写真は、現像係がミスしてほぼすべてをダメにしてしまった。
 そう考えると、ベトナム戦争の時代は報道写真をめぐる技術の面でも、その“salad days”だったと言えそう。
 アメリカ政府は、ベトナム戦争を正義の戦争だと信じて疑わなかったので、第二次大戦の硫黄島の戦いで、星条旗を立てる兵士達の写真のようなものを、戦場写真だとイメージしていて、カメラマンが軍と行動を共にすることをむしろ積極的に推奨していた。その後の戦争では、報道は規制されることになる。
 イラク戦争にはロバート・キャパ沢田教一もいない。ダナンの冷房の効いた部屋で記事を書いていた記者はたぶん今もいる。
 絵でなく、言葉でなく、写真であることの意味と、写真が、絵や言葉であってはならない意味が明白になる。ベトナム戦争が正義ではないことを暴いたのは紛れもなく報道写真だった。
 もし、イラク戦争の正義に、私たちが疑いの目を向けることができているとすれば、それは、ベトナム戦争の報道カメラマンたちのおかげなのである。イラク戦争の実態について、私たちはまだ知らないのだと思う。
 ロバート・キャパもそうたったが、沢田教一ベトナム戦争報道の仕事から離れたあと、カンボジアで命を落としている。その死についてはまだ謎があるようだ。