『ナチュラル・ウーマン』

 『ナチュラル・ウーマン』ってチリの映画。アカデミー賞外国語映画賞をチリ映画として初めて受賞した。
 私は、子供の時に、男に性的ないたずらをされたので、LGBTのうちのGだけは、カラダが寄せ付けない。というより、同性に体を触られるだけでも緊張していると思う、自分でわからないくらいだが、多分、今でも。
 そういう私がこういう(他には『ミルク』とか『スポットライト』とか)映画を観に行くのは、リハビリとか予防接種とかそういう意味合いが確かにある。
 しかし、この映画は、何だろうな?、この系のトラブルは、特に、ゲイでなくても起こる気がした。
 資産のある壮年の男が、家族を捨てて内縁関係を結んでいたのが、男だろうが女だろうが、突然死したとしたら、起こるトラブルは同じだと思う。
 で、なんかはぐらかされた気がした。
 もちろん、同性愛者ならではの屈辱は味わわされるのだけれど、それは、こういうシチュエーションじゃなくてもありうるはずだし、死別と同性愛者差別のふたつの条件がうまく化学反応していないように感じた。
 キリスト教社会でLGBTがどう問題なのかといえば、少なくともカトリックでは、結婚が七つの秘蹟のひとつに数えられているからだと勘ぐっているが、正しいかどうか確信はない。ただ、キリスト教徒どうしの男女の結婚が、性差別ヒエラルキーの頂点に立っていることは間違いないと思う。
 日本でも同性愛者は差別されているのだろうけれど、それは単に少数派が受ける差別ってだけであって、キリスト教社会でのそれとは深刻さが違うんだろうと思う。
 つまり、私たち日本人は、かの社会においては、キリスト教徒の同性愛者より更に下に置かれる存在だろう。そう思いつつ観ると、そう同情もしてられない気がした。