『悪人正機』

 なぜこのタイトルなのかわからないが、糸井重里吉本隆明にいろいろなテーマで語ってもらってそれを文字に起こしたようなので、全編、吉本隆明の一人語りにもかかわらず、糸井重里の本って感じがする。しかし、吉本隆明の言葉を伝える本である。
 これから、吉本隆明って人の思想が、法然親鸞と同じくらい長く伝えられていくかどうかわからないが、この人に特徴的なことは、ギリシア、ローマの古典古代からこっちの思想よりも、文明以前の人間の思想を考えてみるべきだっていう一貫した姿勢のように思う。
 「知識なんてだいたい4世紀ぐらいまでに出尽くしている」って話は、糸井重里もそのあと何度も受け売りで人にしゃべったそうなので、わたしもここに書くわけだけれど、その根拠として、人間の身体の方がそれよりはるか前から今に至るまで変化していないからだそうだ。
 なぜ4世紀なのかはちょっと考えてみなければならないけれど、こういった発想がオリジナルだと思う。西欧哲学の伝統を、せいぜい昨日今日のものでしょうと思って、それよりはるかに古い人間のあり方に、自前で考えてみることができるかどうか、そして、そういう考え方を評価できるかどうかが、吉本隆明に対する評価の違いになるのかもしれない。
 文庫化に当たっての追加取材のところで、中沢新一の本を読み直して感心したと書いている。
 表現として面白いのは、この以前に、何度も対談したときの感想として、中沢新一のことを、剣術家のように「うまく身をかわす」人だと思っていたというのだが、きちんと読んだら、そうじゃなくて大まじめだったと気づいたそうなのだ。
 こういうことのたとえに「剣術家」が出てくるのが吉本隆明らしいし、言葉の身体性を失っていないという意味で、やはり信頼できる思想家だと思う。吉田健一も、言葉って、実際にぶつかったら痛い「もの」としての実体があるんだってことを言っていたが、そういう人たちの言葉以外は、思想というより解説にすぎないんだと思う。お手本の解説、そして、その解説。ってことをずっと繰り返してるうちにどこかでもううんざりとならない人も確かにいるのだろうし、それはそれで偉いに違いない。
 こういう書き方をしていて、この言い回しが、聖道仏教に対する、法然親鸞の表現に似てくることに、いつも気がついてはいる。「もろこしわが朝に諸々の智者たちの沙汰しもうさるる観念の念にあらず」、「もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。」
 吉本隆明親鸞に共通して感じるのは、この辺の「そこじゃないでしょ」って感じ。例えば、法然上人は、比叡山の授戒師でもあったわけだが、あえてそれを捨てて念仏を勧めた。梅原猛が書いていたが、授戒ってのは何のことか何度聞いても分からないそうだ。梅原猛が何度聞いても分からないなら、それは、そもそもわけがわからないものだと考えていい気がする。お手本のコピーを何度も繰り返すうちに元が何だったかわからなくなるってことはありそうに思う。