『フロリダ・プロジェクト』

 子供目線で撮影しているからなのは分かっているが、ローアングルの抒情的な画面が美しく、そこで徐々に進行していく破滅がウソのように感じられる。それは、子供たちにとっては、目に見える光景だけがホントで、自分たちが破滅に向かっているってことは分からないのだから、この映画は、子供たちにとっての真実を忠実に追う画面で、アメリカの今を痛切に切り取っていると言えるだろう。
 私がいいなと思ったのは、主演の女の子(母親の方も女の子と言っていいくらいだが、そうじゃなくて、ブルックリン・プリンスの演じるムーニーの方)がひとりで入浴しているシーンで、それが何度か反復する何回目かに、「あれ?これは」って気づくわけだけど、説明的シーンをガンガン切り落とした効果で、この映画全体が、この子が大人になった後に、ときどき夢に出てくる、記憶か、想像か区別がつかないイメージのつながりなんじゃないかというような、そんなリアルさ、悪夢のようなリアルさがある。
 週刊文春シネマチャートでも取り上げられていて、芝山幹郎は「けばけばしい夢の国の裏に深い泥沼。21世紀のアメリカが、子供を交えたきわどいネオレアリズモにようやく逢着した。」
 森直人は「主題をよく練り込んだ素晴らしいロケ撮影。厳しい現実に裁かない眼で向き合い、鮮やかな感動へ。ダークホース的傑作!」など、おおむね好評。
 斎藤綾子の評がやや辛いのだけれど、それは、アメリカの貧困の実態に思いが及んでないんだと思う。『ボストン・ストロング』もそうだし、もっと言えば『アイ、トーニャ』もそうかもしれない、アメリカの人たちが、深層で味わっている挫折、みたいなものが、この頃のアメリカ映画ににじみ出てきている気がする。
 ディズニーランドの裏側にある、ピンク色の安モーテル、あの建物自体が、映画の主役であるかのよう。ロケーションの妙ってこともあるけど、やはり、子供のころから繰り返し見る夢の場所みたい。そういう夢を見ることがあるだろうか?。最近は夢自体あまりみなくなったが、若いころは、またあの夢かと思うことがあった。赤い欄干の白い橋の前にいて渡ろうとするけれど渡れないのだ。しばらく忘れていたけれど、この映画の鮮やかな色のせいか思い出した。
 モーテルの管理人を演じたウィレム・デフォーは、この役で、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。代表作のひとつになったのではないかと思う。実際に、そういうモーテルの管理人に取材して役作りしたそうだ。
 主演の母親を演じたブリア・ビネイトは、監督のショーン・ベイカーが、インスタグラムで発掘した、全くの素人だそうだ。それは、一面ではアメリカンドリームだが、ブロードウェイのトップダンサーに抜擢されたのとはわけが違い、リアリズムへの志向の意味が強いだろう。
 斎藤綾子が、この姉妹のような母娘に反発を感じるのは、この母娘を日本の状況に引き寄せて見てしまうからだろう。川本三郎が、日本とアメリカの小説に共通するのは「少年性」だと言ったことがあった。トランプと安倍に共通すると言い換えていいかどうか分からないが、少なくとも戦後の日本の文化は、アメリカと「少年性」、言い換えれば「幼さ」を共有してきたし、それだけでなく「幼さ」をよしとしてきた。その「幼さ」の文化の最たるものがディズニーランドなのだとすれば、その辺縁にいながら破滅していくこの母娘の姿には身につまされるものがある。