『晩春』反戦映画としての

 新宿ピカデリーで小津4Kが始まっている。一ヶ月ほど前に観た『晩春』だったけれど、あの時はちょっと傷みすぎていたので修復されたものをもう一度観た。
 昭和24年に封切られた『晩春』は、正確に言えば、日本映画ではない。私たちは昭和25年に日本が独立を果たすのを知っているが、この時はまだ日本は文字通りアメリカの属国だった。マイル表示の道路標識が映されるのも、能楽やお茶席と言った日本的な文物が用いられているのも、もちろん偶然であるはずはない。 この映画に登場する人たちは、戦争に負けて、他国の属国となった国の人たちだということを易々と忘れてはならないと思う。
 小津安二郎自身、シンガポール終戦を迎えて、復員したのは昭和21年の2月だった。それから3年しか経ていない『晩春』で原節子が演じている紀子は27歳、徐々に恢復しつつあるらしいが、戦中戦後の一時期には健康を害していたことが、笠智衆の演じる父親と、杉村春子の演じる叔母の会話からうかがえる。
 笠智衆が紀子について語る「戦争中に無理に働かされたのが応えて・・・」というセリフにはヒヤリとさせられる。日中戦争が始まったのは1937年なので、1949年に27歳の紀子は、青春時代のすべてを戦争に奪われたと言っていいと思う。
 『晩春』は、紀子の、父親に対する近親相姦的なコンプレックスを強調されることが多いのだけれど、紀子が「今のままでいたい」というその今が、戦争で得た病いからようやく恢復しかけた時には、婚期を逃したと世間に思われる歳になっていた、そういう今だということを思うべきだ。
 紀子と同じように、戦争で青春を失った多くの人たちがいたはずで、『晩春』の舞台になっている1949年には、それこそついこないだまで、神国だ、神風だと叫んでいた同じ連中が、戦争などまるでなかったように、アメリカの占領下でよろしくやっている、そのことに、紀子がわだかまりを抱いていなかったとは思えない。
 紀子が1949年に27歳だったとすると、吉本隆明のひとつかふたつ上、ほぼ同世代である。糸井重里との対談で、吉本隆明は、敗戦の時の挫折感は「とんでもなく別ものだ」と語っている。やがて、そんな挫折感の揺り戻しが来て、他人の悪いところばかり見えていたのが、自分の悪いところばかり見えるようになる、全体的で大きな挫折感が、個人的で部分的な挫折感に変わっていったというのが吉本隆明の場合だったそうだ。

 これは、表立って語られていなかったとしても、当時の世代感情として共通する何かがあったのは間違いないだろう。そして、父親も、戦争を引き起こした世代のひとりとして、その責任を感じている。東京裁判が結審して、A級戦犯が処刑されてから、まだ一年も経っていない。もちろん、笠智衆が演じている父親は、映画の時点で大学教授であるのだから、戦時中、戦争に協力的であったりはしていないのだろう。しかし、そういうこととは関わりなく、敗戦国の父親の、娘に抱いている悔悟の念は、今の私たちが想像するよりもはるかに痛いものがあったはずだろう。
 父親が後妻をもらうと知った時の、紀子の表情は、原節子が美しいだけに、凄まじいものがあり、特異にさえ感じられる。それは、その感情が、もはや紀子の個人的な感情ではなく、世代感情であり、それはもっと古い世代なら世界苦と呼んだものだからだろう。それは、本来なら紀子が個人で抱かなくてもよい感情のはずだった。
 親離れできない娘の父に対する嫉妬ではない、取り残される、忘れ去られる、喪われる世代の怨念に近いものを、その顔は思わせる。能を観た帰り、紀子は父と別れて、離婚して職業婦人をしている友人のアヤを訪ねて仕事の相談をしていることに注意してみたい。
 当初、父が紀子の結婚相手に考えていた、大学の後輩である服部と紀子が浜辺で話すタクアンの話だが、紀子は自分が粘着質な性格だと語っている。でも、それは、何についての思いなのか?。のちに、服部が紀子を巌本まりの演奏会に誘うが、紀子は「奥さんに悪いから」と断る、その時、服部が「タクアンですか?」と言うのだ。
 演奏会の服部の隣は空席になっている。フィアンセもそこにいないと言うことは、服部は寸前まで紀子を待っていたってことになるだろう。紀子の服部に対する拒絶の心理の奥に、エレクトラコンプレックスなどではなく、もっと深い絶望があると私には見える。
 お見合い相手がゲーリー・クーパーに似てるかどうか、紀子とアヤが語る場面がある。つまり、紀子個人の位相では、お見合い相手が気に入っているとわかるコミカルなシーンだが、それでも、その心理のもっと深いところで、紀子を押しとどめようとする思いがあり、それがこの映画のテーマであり、この父娘のテーマでもある。
 紀子の結婚を前に、親子水入らずで出かけた京都旅行の夜に、紀子は父に問う、なぜこのまま朽ち果ててはいけないのか?、絶望に身を任せていてはいけないのか?。
 父にとっては辛い問いである。その絶望に自分も責任があると感じているからだ。だが、答える。絶望は間違っている。苦しみを選ぶことは間違っている。幸せを選びとらないことは怠惰だと。
 父を捨てていきたくない、たとえ、父が再婚したとしても、父のそばにいたいという紀子は、たしかに子どもじみて「わがまま」に聞こえる。しかし、終戦を境にした無節操な価値観の変化を目の当たりにした紀子の世代の人たちにとっては、それは単なる「わがまま」ではなかったと思うし、そういう紀子に共感を抱く人たちも多くいたと思う。今でも、あのシーンでは客席にすすり泣きの声が聞こえる。
 当たり前すぎて誰も気がつかないが、人が未来を信じられるのは、それが過去の延長だと無意識に信じているからだ。過去の価値観が根こそぎ失われた紀子の世代の人たちが未来を信じられないのはむしろ当然であり、そして、その絶望には、父もまたひそかに共感しているからこそ、その絞り出す言葉に説得力がある。けして理路整然としているわけではないが、ただ、思いの強さだけは伝わる。よく聞くと、自分の人生はもう終わりに近づいている、しかし、お前はそうじゃないと言っているだけなのだ。
 床の間の花の活けていない花瓶について、それが何を意味するか論争があるそうなので、ここでは、反戦映画としてのその意味をこじつけてみる。花瓶は1度だけでなく2度映される。それは、1度目は失われた過去への思い、2度目は、何の展望もない未来への紀子の不安を映していると言えるだろう。
 笠智衆の回想によれば、ラストは彼の号泣で終わる案もあったそうだ。娘を嫁に出しただけで、号泣するのは、確かに唐突に思える。しかし、戦争そのものに対する悔悟の念がその裏にあったとすればどうだろうか。
 以上は、『晩春』に込められた反戦の思いに注目して考えてみた。もちろんこの映画は娘の結婚をめぐる普遍的な父娘の思いを描いた映画である。しかし、それだけだとすると、奇異であったり、唐突であると感じられる部分があると思う。そこには、小津安二郎と、脚本の野田高梧が込めた思いがあるのではないかと想像してみた。
 カメラを睨みつける原節子の顔は、小津安二郎の顔でもあったのではないか。しかし、小津安二郎の世代はこの父娘のちょうど間にいる。だから、その紀子の顔に、小津安二郎は見つめられてもいたはずである。