渋谷の松濤美術館で、「涯(ハ )テノ詩聲(ウタゴエ) 詩人 吉増剛造展」、9月24日まで。
詩人としての吉増剛造はずっと気になっているが、今のところ、歯が立たない。
前にもチラッと書いたが、東京国立近代美術館で開催されていた「声ノマ 全身詩人 吉増剛造展」は観た。
その時の体験からいうと、一番とっつきやすかったのは、写真だった。多重露光した写真。
例えば、二枚の写真が重なって一枚のイメージになったとすれば、それぞれの元のイメージは失われている。イメージの混濁にすぎない、その多重露光の写真がなぜ魅力的かというと、やはり、そこに時間が乗るからだろうと思う。
しかし、これは、写真のこころざしとは違うんだとおもう。しかし、絵とも違う。やはり、言葉に近いかもしれない。言葉になる前の何か。言葉の既視感のように、もう少しで記憶の中から言葉が浮かび出しそうな、そういうイメージがあるとすればそうかもしれない。雨が雨という言葉に、バスがバスという言葉にきちんと重なる寸前のイメージのような気がする。
http://www.asahi.com/special/kotonoha311/yoshimasugozo/
生原稿もあるし、声ノマの時は原稿を書いている動画も見た。が、これはほぼ読めないし、読む事を想定して書かれていないと思う。
このように、ハッキリと表現のためだけにあって、意思疎通のためにはない言葉を前にすると、理解不可能であることが、意思疎通の絶対条件であり、個人が自由であることの本質だと思えてくる。
全部理解できるよ、分かりきってる、という態度をとることもできるが、そこには遮断しかない。それは、一般には正しい態度だが、理解できない部分に留保を残しておかないと、コミュニケーションが生じる可能性はない。
その意味では、詩人の言葉に耳を傾けるのは、巫女の神託を聴くのに似ているが、巫女の神託からは意味を汲み取らなければならないが、詩人の言葉に、意味を汲み取ることはできない。そこには表現があるだけで、意味を伝達する意図はないから。
こうとりとめなく書きながら、一方で考えているのは、言葉とナショナリズムのことなんだが、こないだ読んだ『〈民主〉と〈愛国〉』のベ平連の章で、彼らが呼びかけて脱走した米兵たちの書いた声明文が感動的で、ここには、詩とは逆に、意味の伝達しかない。語りかけるべき相手としてのアメリカ人がハッキリと存在している、意味の誤解が起こりえない言葉。
アメリカの19歳の少年が書いたその言葉を、小田実は、自分は日本語でこれを書けるかと自問して、書かないと結論している。『〈民主〉と〈愛国〉』自体が、それが何故日本語で書けないかについて、その言葉のねじれについて書いている本だとも言えるんだろう。
言葉は祖国でもあり個人でもあるのだが、それが捻れていると、吉増剛造の詩を不可解と切り捨てる一方では、脱走兵の声明文をただの言い訳としかとれない。しかし、吉増剛造の詩を楽しむ一方で、脱走兵の声明文に感動できる人もいる。そこには未開と文明ほどの差があると思う。