『「右翼」の戦後史』

「右翼」の戦後史 (講談社現代新書)

「右翼」の戦後史 (講談社現代新書)

 小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』は、戦後20年あまりの日本の思想家たちを俯瞰し、余白ひとつ残すことなく、天球図のジグソーパズルを完成させたことで、戦後日本に思想家たちがいて、そこに思想があったことを明らかにした。
 キリスト教と古典古代という背景がなく、一方で、儒仏の教養を捨て去ってしまった近代以降の日本を対象に、思想のありようを俯瞰するについては、広範な知識と強靭な思考力が必要とされるはずで、こういう本は今後そう易々とは現れないだろうと思う。
 安田浩一の『右翼の戦後史』は、戦後の右翼について体系的に解説した本だが、右翼というものに、如何に「思想がないか」がわかる。
 個人的に、ずっと不審に思ってきたことのひとつに、そもそも日本に、右、左、というべき何かが存在しているのか?、という疑問があったが、この長年の疑問が(個人の感想ですが)、解消した。
 つまり、近代の日本、西欧の文明と交流し始めた日本に、民主主義、社会主義個人主義共産主義無政府主義、など、何でもいいんだが、そういう思想が流入し始めた。それに過剰反応したのが右翼なんであって、そういう新しい思想なら何でも、とりあえず「左翼」ということにして攻撃したにすぎないのだ。
 つまり、「右翼」は、そもそもリアクションにすぎなくて、彼ら自身の内側に自発的でオリジナルな発想があったわけではなかった。そして、「左翼」とは、「右翼」が何かしら拒絶反応を示すもの(何でもいいわけ、それこそ、ビートルズでも、朝鮮人でも)に仮想した存在にすぎなかった。
 ひらたく言えば、右翼は、何か知らないモノやコトを目にすると、不安で攻撃したくなるので、その攻撃対象を「左翼」と呼び、その攻撃の正当化も「左翼だから」で片付けていたというだけ。だから、思想なんかあるわけないのだ。
 つまり、日本の「右翼」は、「新しいことに拒絶反応を示す人たち」にすぎなくて、日本の「左翼」は、「右翼」が攻撃対象に選んだ人たちというだけ。だから、本人が左翼のつもりじゃなくても「左翼」になってしまうことがあるし、時には、右翼のつもりじゃなくても「右翼」にされているといったことも起きる。
 それで、個人的にずっと不思議だったもうひとつの疑問も解けた。それは、昭和天皇今上天皇靖国参拝を拒否してるのに、何で「右翼」(本来の「王党派」という立場であるなら)が、天皇の意向に逆らって、靖国参拝を至上命題のように崇め奉っているのかだが、何人かの「右翼」が公言して憚らないように、彼らは「天皇を利用している」のだ。
 靖国は、「右翼が天皇を政治的に利用するための暴力装置」なのだ。「右翼」は、靖国という暴力装置天皇というエンジンを積みさえすれば、彼らの悪魔が復活すると信じているカルトにすぎない。靖国という暴力装置は、やはり早く破壊したほうがよい。