1968年 激動の時代の芸術

 千葉市美術館まで出かけて「1968」をテーマにした展覧会を観たけど、正直言ってピンとこなかった。
 一番ピンとこなかったのは、赤瀬川源平の、世に言う「千円札裁判」周辺のパフォーマンスで、これの一体何が面白かったのかと首を傾げた。
 赤瀬川源平については、のちの路上観察学会の方がはるかに面白いと思う。まあ、あんな程度のことが裁判になったという、今も昔も変わらぬ、日本の司法の程度の低さには笑わされる。とくに、裁判官に「現代芸術」ということを理解させるために、裁判所に現代芸術の作品群が大量に陳列され、法廷がさながら美術館の様相を呈したという、当時の写真は確かに見ものには違いないが、そんな司法に、社会正義の判定を委ねていると思うと笑う気にもなれない。
 つまり、そういうことを「面白い」というかどうか。それを面白いというなら、それは、裸の未開人を笑う趣味の悪い態度にすぎない。
 これらの作品が誰に向けて発信されているのかよくわからない。というより、たぶん、当時、これらの作品が想定した鑑賞者としての「大衆」が虚妄だったのだろう。虚構ですらなかったと思う。虚構であればまだ誰かの確信犯的作為でありうるが、そうではなく、現実に対する考えが甘いためのただの錯誤にすぎず、誰に何を伝えているつもりか分からないまま作っている。
 結局、「現代芸術家」という村社会の中でだけ通用するから騒ぎにすぎなかったということで片付けてよいだろうと思う。
 1948年に、小倉遊亀が、菩薩の像を観て「あの頃の画人の眼は深い所へとどいていると思っ」て、「あれは菩薩像ではあろうけれど、たとえば遊女を描いてもあそこへ行くのがほんとうだ、と」現代の婦女を描こうとした、その態度と比較して、現代芸術の全てが、お遊びとしたところで何ほどの価値があるのかと思う。