『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』

 『ボヘミアン・ラプソディー』はどうしてこんなにヒットしてるんだろうと考えてしまうのは世代のせいだろうか。クイーンが伝説のロックバンドだという気がしない。日本ではとにかく女の子に人気があったと記憶している。『オペラ座の夜』のLPは持っていた。「ボヘミアン・ラプソディー」の壮大さには魅了されたものだった。が、この映画がどうしてこんなに受けてるのかは全く不思議。でも、ふだん映画を観ない人が観に行く映画って、これなんだろうなとはうすうす思う。
 そういうわけで、『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』って映画について書くのであるが、われながら、端っこすぎないか、大丈夫かなと不安になる。
 この映画は、ペギー・グッゲンハイムの伝記を書いた作家のジャクリーン・ボグラッド・ウェルドが、ペギー・グッゲンハイムにインタビューしたテープが倉庫から発掘されたそうで、それに基づいて、一本ドキュメンタリー映画を仕上げたってものである。『ヒッチコック/トリュフォー』と同じフォーマットなので、あれに耐えられた人はこれにも耐えられる。

ペギー―現代美術に恋した“気まぐれ令嬢”

ペギー―現代美術に恋した“気まぐれ令嬢”

 グッゲンハイムっていう珍しい名前については、美術館めぐりを趣味にしていると、もちろんよく目にする。ペギー・グッゲンハイムの名前も、ジャクソン・ポロックの展覧会のときに目にしたか、あるいは、他のときにか、なんとなく知ってはいた。
 でも、ペギー・グッゲンハイムが、グッゲンハイム家のblack sheep、skeleton in the family closetだったとは知らなかった。大富豪と言いつつ、タイタニック号事故で死んだペギーの父親は、一族のうちではさほどでもなかったそうで、1919年、ペギーが21歳の時、手にした遺産は43万ドルだった。でも、「だから従兄弟の経営する本屋でアルバイトしたの」は、ジョークなのだ。このとき、半年ほどペギーが働いていた「サンワイズ・ターン」は、ただ本を売るだけでなく朗読会を開いたり、絵も展示していたというから、その後、ペギーがロンドンで始める「グッゲンハイム・ジューヌ」や、戦火を逃れてNYで始めた「今世紀の芸術」といった画廊にインスピレーションを与えたかもしれない。
 遺産を現在の金額に換算すると、38億円くらいだそうだ。たしかに月旅行には行けないかも。ただし、剛力彩芽どころではなく、ヨーロッパで暮らしていた頃は、現代アーティストのほとんどとベツドを共にしていた感さえある。しかも、それを悪びれず(現に何も悪くないのだし)、帰米した後に本に書いた。スキャンダルになったが意に介さなかったみたい。
 インタビューでは、「本には書かなかったけど」と、ジャクソン・ポロックとも一応試そうとしたことも告白している。でも、その時はうまくいかなくて、イラついたポロックはパンツを丸めて窓の外へ放り投げたそうだ。ポロックの方が、14歳年下だけど、ずっと保守的だったと思う。アメリカ人だし。それとも、アル中の後遺症が残っていたか。ペギーはポロック夫妻を「恩知らずな人たちよ」と語っていた。
 ペギー自身、彼女の最大の功績は、ジャクソン・ポロックを世に出したことだと、これは、この映画の冒頭で、そう語っていた。これはしかし、唯一のではないのはもちろんで、ナチスの侵略が迫るパリから、多数の芸術家たちをNYへ移住させたのも彼女だった。その時の記念写真がこれ。

ほとんど、ノアの方舟ピエト・モンドリアンがいるが、彼がジャクソン・ポロックの絵の前に立って「いや、アメリカで目にした絵の中で最も感銘を受けた」とペギーに言わなければ、ポロックの運命は変わっていたかもしれない。
 マックス・エルンストとは、渡米後に結婚した。今思いついたけど、アメリカでなければこの結婚という事態は出来しなかったかもしれない。マックス・エルンストは美男子で、中心にいたいタイプだったとペギーは言っている。絵から受ける印象とは違う。マックス・エルンストが特に美男子とは思ったことがなかったが、そういえはそうかも。ペギー自身は鼻が大きいのを気に病んでいて、整形手術も試してみようとしたことがあるくらいだそうだ。しかし、どこまで本当なんだろうか?。得意の「つかみ」ネタだったんじゃないだろうか。
 いずれにせよ「恋多き女」とかfemme fataleとかいう役回りに満足するつもりはなかったようだ。あくまで結果としてついてきたという感じ。だから、かどうか知らないが、そういうことがスキャンダルになるアメリカが退屈だったみたいで、晩年はヴェネチアに移り住んだ。パラッツォ・ヴェニエル・ディ・レオーニという邸宅は、今は美術館として公開されている。
 パンフレットに、東京国立近代美術館主任研究員の保坂健二朗さんが書いた文章によると、宮本百合子がほぼ同じ年で、もしかしたら、ペギーが働いていたNYの本屋ですれ違ったんじゃないかとか書いていた。
 私が思い出すのは、金子光晴の奥さんの森三千代だな。森三千代こそペギーと同じパリの空気を呼吸していたに違いない。ペギーが戦後に企画した「20世紀の31人の女性展」の作家の中ではレオノール・フィニとか。レオノール・フィニはレズだとばかり思ってた。

こういう絵を描く女性がレズじゃないなんて思わないでしょう。ペギー・グッゲンハイムは「女性の自由と権利の“荒れた”見本」などと言われたそうだが、この頃の女性の自由奔放の方が、ネット社会でちっぽけな正義感を振り回している連中よりずっと好ましく思える。そういう正義感は、結局のところ、全体主義に直結する。なぜなら、「多勢に無勢」という数の論理以外に裏付けがない正義だからだ。森三千代は自分の息子を兵役拒否させた。それを「公共心のなさ」とは言わない。自分の息子をむざむざ殺させて、そのあとは靖国の妄想に加担して、他人の子も殺そうとするのが公共心と言えるか?。自由であることに代償はあるだろう。でも、不自由であることは目も当てられない。