国立西洋美術館にルーベンス展を観に行った。ルーベンスがイタリアにいた頃に焦点を当てた展覧会だそうだ。
ルーベンスは、工房システムで絵を描いた。そういうシステムを作り上げられるのは、画力と政治力があったからに違いない。しかし、そういうシステムだと、日本の狩野元信もそうだったが、後年、ルーベンス個人の絵が分かりづらくはなる。
例えば《セネカの死》という絵があった。
これは、セネカの顔だけをルーベンスが描いたという。ネットのこの画像でもわかると思うが、実物をみると、顔とその他の部位の違いが歴然としている。
大画面の《マルスとレア・シルウィア》と並べて展示されていた、ルーベンスが下絵として描いた小さめのタブローの方が個人的には断然よく思えた。
これは《クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像》。
親密な対象を手慰みに描き止めたこうした絵の方に、むしろ心を動かされた。
もちろん、それは美術館で見るからで、本来設えられている場、教会なら教会で見れば、全く違う見え方をするはずだろう。
そして、これは
なんか、監禁されて餓死しかかってる父親に、娘が母乳を飲ませて養ったって絵なのだそうだ。観無量寿経の韋提希夫人は、全身に蜜を塗って、監禁された王を養った。そういうエピソードを見聞きしてたじろぐ私の方を検討してみる必要があるのかもしれない。
この絵は、娘の右腕のふくよかさに信念がこめられていると見えて忘れがたい。
常設展に、シャイム・スーティンの《狂女》があった。これは、前からずっとあった気もするが、この前、三菱一号館美術館のフィリップス・コレクション展で、コレクターのダンカン・フィリップスが、シャイム・スーティンの《嵐の後の下校》を重要な作品と考えていたと聞いて、この《狂女》のまえで足を止めてしまった。