『パッドマン』と『大人の恋は、まわり道』

 インド映画『パッドマン』と、キアヌ・リーブズ、ウィノナ・ライダーの『大人の恋は、まわり道』のどちらかひとつしか観られないって人に勧めるとしたら、たぶん、実際に観た人の100人中97人くらいは『パッドマン』を勧めると思うし、そもそもこのふたつを並べる意味がわかんないと思うんだけど、個人的には、「疾風怒濤の波をかぶらない恋愛」という点で、このふたつの映画を、仮に、括ってみたい。
 ただ、勧めるとしたら『パッドマン』の方なのは間違いなく、こちらは恋愛映画というだけでなく、奥行きも広がりもスケールが大きい。
 インドの片田舎で、新婚の奥さんがメンスの処理に、雑巾みたいな布を使っているのを知って、安いナプキンを自作しようとする男の奮闘記で、実在の人物がモデルになっているそうだが、インドの性差別や偏見やサクセスストーリーの大略は実話としても、その映画的な脚色の方にむしろ感動した。
 日本に置き換えてみて、本田宗一郎の若い頃を主人公に映画を作るとして、こんなにうまく作れる人がいるかしらと思った。本田宗一郎も、たしか、スーパーカブの元になった原付自転車を、奥さんのために作ったのではなかったかなあ。
 「大愚」って言葉があるけど、主人公ラクシュミの性格はまさにそんな感じ。誠実で明るくバイタリティーに溢れてるけど、どこか抜けてる。町工場で働いているのも本田宗一郎に似てる。アメリカ的なマッチョな価値観の対極にある、こういう主人公が、NYの国連本部で、カタコトの英語で演説する言葉を聞いていると、アメリカの資本主義社会から、さまざまなマイナス面が噴出するのを目にしつつも、アメリカ人がなんとなくそこから離れがたい態度で煮えきれないのは、マッチョな価値観への郷愁といったものがあるからで、それが、トランプ大統領を誕生させもしたのだろうと思えてきた。
 主人公のラクシュミは、苦労して作った機械がコンテストで認められて、特許を取れば大金が手に入るという時に、敢えてそうせずに、安い機械を作り、ナプキンの消費者である女性たち自身を労働力として雇い、そしてまたその利益で、機械をインド全域のみならず、アフリカなど世界各地の貧しい地域に普及させていく道を選ぶ。
 これは、アメリカ型資本主義の真逆の発想だが、重要な点は、それがアメリカ型資本主義に対する批判や反発としてではなく、自然な感情、大金があっても幸せだと感じないだろうという、素朴な実感に素直に従った結果であることだ。
 だから、アメリカ型資本主義が、最新の経済理論でもなんでもない、実は単に、マッチョ神話に基づく虚ろな迷信だと見えてくる。そういう力をラクシュミの言葉と行動が持っている。だから、この映画の恋愛が、どうしてもお姫様抱っこの結末でなければ気が済まないマッチョ神話の幻と違っているのは当然だ。
 パリーというこの映画のヒロインは、アメリカ型資本主義とラクシュミの世界をつなぐ立場にいる。パリーがいなければラクシュミの試みは妄想で終わったかもしれない。ラクシュミに出会わなければ、パリーは退屈な一生を送ったかもしれない。2人の関係は、お互いを補完するという意味で恋愛以上かもしれない。疾風怒濤の悲劇でもなく、ハリウッドのハッピーエンドでもないこの恋愛の顛末は私たちの胸を打たないだろうか。
 この恋愛の顛末が実話かどうかわからないが、なにも、恋愛を、ロミオとジュリエットや若きウェルテルの末裔に独占させなくてもいいだろうと思える。
 その意味で、『大人の恋は、まわり道』も、こじゃれた恋愛映画になっている。舞台はアメリカだし、セリフのある登場人物は、キアヌ・リーブズとウィノナ・ライダーだけという、なんとなく舞台劇の映画化みたいなんだけど、オリジナル脚本みたいです。レビューは散々だけど、個人的にはそんなことはなく、金曜日の夜にカップルで見たりするのにちょうどいいお洒落な映画だと思いますよ。泣いたり喚いたり、キッタリハッタリしなくてもいいだろうよ、という、文字通り「大人の恋」を描いてる。
 この人たちが若きウェルテルの末裔でないかどうか知らないけど、恋愛映画かくあるべきっていう固定観念を斜にみてるのは間違いないと思います。

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パッドマン