「遊びの流儀 遊楽図の系譜」 サントリー美術館 おススメの展覧会

 キム・カーダシアンが、補正下着のブランドに「KIMONO」とつけようとしたら、なんか言いがかりまがいの抗議が舞い込んだとかで、幸先悪いし、薄気味悪いしで、撤回したという。
 しかしながら、日本の和服を「kimono」というのは、そそもそもが英語圏の誤用なのだ。着物は「着るもの」を総称する一般名詞にすぎない。
 洋服も和服も着物なんだけど、洋服が着物でないかのような気がするのは、昔は、和服が「フツー」だったので、「フツー」じゃなかった洋服は別称されたから。
 「特別」だった洋服の方がいまはフツーになり、「フツー」だからこそ、ただ「着物」と呼んでいた和服がいまは特別な装いになり、「着物」という言葉にも「おめかし」といったニュアンスがついてきたのだが、いずれにせよ、言葉としての「着物」はやはり普通名詞にすぎない。それを固有の文化のようにいうのはどうかな。欺瞞だと思うし、そして、何よりキナくさい。
 Tシャツもジーパンも着物だし、下着(襦袢)ももちろん着物だから、キム・カーダシアンの方が言葉の使い方としてはむしろ正しい。「よそいきの和服」という意味の言葉としては「呉服」が由緒正しい。
 「呉」は三国志に出てくるあの「呉」でしょ。つまり、もし、キム・カーダシアンの「kimono」が日本文化の盗用なら、日本の「呉服」は中国文化の剽窃なわけ。日本の呉服を呉の人が着てたわけないし。日本人が勝手に「呉」服と名付けたのである。
 しかし、それで中国人が抗議したとは聞いたことがない。なんだろうね、この日本独特の「かわいそうな感じ」は。

 サントリー美術館で「遊びの流儀 遊楽図の系譜」という、魅力的な展覧会が始まっている。途中で四回も細かく展示替えをするみたい。先週末は、はじめての週末ということで(かどうか知らないが)、着物を召したご婦人方がたくさんいた。そして、


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≪邸内遊楽図屏風≫

こんな絵を観ながら、「ゆったり着てるね」とか話しているのが聞こえた。
 それはですね、奥さんがた、今と昔では反物の幅が違うのですよ。安土桃山時代、小袖と言われていたころの反物の幅は今よりずっと広かった。したがって、この絵のようにしどけない姿でいても裾が割れたりしなかったのです。
 というより、当然ながら、自由に動いても、裾が割れないような反物の幅になっていたわけです。それが徳川時代に、度重なる倹約令で、反物の幅が短くなっていった。その結果として、今でいう「正座(ちなみにこの言葉は江戸時代にはなかった。「端座」といったようです)」などという拷問みたいな座り方をしなければならなくなった。江戸末期の浮世絵なんかをみると、町娘の裾からふくらはぎがちらちら見えるのが色っぽいなんてことになるみたいですが、それは倒錯というものです。
 ですから、この絵の人物たちが、ゆったり着ているのではなく、あなたたちが窮屈に着ているにすぎないのです。話は逆なのですよ、奥様方。詳しくはこちら。

日本人の坐り方 (集英社新書)

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 それはともかく、簡単な線でさらりと描いたようでいながら、この人物たちは、着物の中の肉体が感じられるほど生き生きとしている。着物を着る生活が身体感覚の深いところまで根付いていたことがよくわかる。

 特に、この縁側のふたり。

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《邸内遊楽図屏風》部分

 この線の確かさは、「文化」などというあやしげなものの対極にいませんか。
 ちなみに、「しどけない」と書きましたが、

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≪邸内遊楽図屏風≫部分

立膝は江戸初期までは礼法にかなった座り方でした。
 邸内遊楽図、花下遊楽図、婦女遊楽図、など、当時の名もなき人たちを描いた、artist unknownな画家たちの絵を観ていると、今の私たちの窮屈さを思い知らされる。
 とくに、面白かったのは、≪婦女遊楽図屏風≫で、ふたりほどの幇間さんをのぞいて、登場する全員がなぜか女性。そのうちの少なくとも二組は、寄り添う相方の胸元に手を忍び込ませているのを、私は見逃しませんでした。

 そして、印象的だったのは、こうした遊楽図のそこかしこで

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輪になって踊る人たちが、画面のアクセントになっていること。

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≪輪舞図屏風≫部分

 ここに貼り付けてあるイメージはすべて屏風の一部分である。このほかの場所では、喧嘩をする人、水遊びする人、風呂上がりの人、料理に舌鼓をうつひと、双六に興ずる人たちがいる。

 この展覧会の特徴のひとつは、ほぼすべての絵の作家が誰であるか分からないことだ。ルキノ・ヴィスコンティの晩年の映画に『家族の肖像』がある。タイトルの「家族の肖像」とは、18世紀のイギリスで流行した、家族全員を描いた絵のことで、英語の原題の「conversation piece」は、直訳すると「話のキッカケ」みたいな意味だが、イギリスでは、家族の絵をそう呼んだそうだ。アートとしてどうこうということではなく、これを見ながら会話をはずませたことだろうと思う。

 今回の展覧会には、何かそれに通じるものを感じた。現に、絵を見ながら話している人も多かった。屏風に小さく描きこまれている、あれやこれやを見つける楽しみがあって、見つけるとつい声に出してしまう。わたしも、座敷の猿回しを見つけて、「あ、猿だ」と声に出してしまったが、隣の見知らぬ女性が、単眼鏡を覗きながら「猿ですね」と応じてくれた。まさにconversation pieceになったわけである。

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世の中を渡りくらべて今ぞ知る 阿波の鳴門は波風もなし

 映画がらみの話を付け加えると、衣笠貞之助の『地獄門』に出てくる「競べ馬」の場面そのもののような屏風もありました。これを参考にしたのかもしれません。

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