- 作者: 鬼頭春樹
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2012/02/25
- メディア: 単行本
- クリック: 8回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
お盆前に、鬼頭春樹の『禁断 二・二六事件』を読み終わっていて、お盆が明けたらブログに感想を書こうと思っていた。
ところが、びっくり。お盆休みの間にNHKが海軍の秘密資料を発掘した。
www3.nhk.or.jp
陸軍の青年将校によるクーデターを、海軍は発端から結末まで、ひそかに監視して、分刻みの記録を残していた。
こういう第一級の史料が発見されてしまうと、過去の研究はいろいろ修正を受けざるえない。
鬼頭春樹の推測が外れていたので、いちばん大きいのは伏見宮博恭王の動きで、いま、WIKIをのぞいてみたら、Wikiは鬼頭春樹の仮説に依っているようだ。
当時、海軍の軍令総長だった伏見宮博恭王は、二・二六事件当日の朝、昭和天皇に拝謁している。その拝謁に当たるに、加藤寛治、真崎甚三郎と事前になにやら協議していたようで、鬼頭春樹は、決起した青年将校たちは、伏見宮博恭王に根回ししていたのではないか仮説をたてていた。
しかし、今回発見された海軍側の史料によると、伏見宮博恭王はむしろ昭和天皇に呼ばれて参内した。昭和天皇は、まず、陸軍のクーデターに海軍が同調する最悪の事態を想定して動いたのだった。
九州の沖で演習していた艦隊をただちに東京湾に向かわせ、海軍の陸戦隊を臨戦態勢につかせた。そうしてクーデターに対する鎮圧の体制を整えたのだが、これは、万が一の場合には、海軍と陸軍が東京で内戦状態に入ることを意味している。
そういう事態になったからこそ、陸軍本体がクーデターを抑えにかかったということはあるのかもしれない。というのは、陸軍に限らないかもしれないが、軍の体質はとにかく身内に甘かった。二・二六事件の場合でも、事態の鎮静化を命ずる天皇の奉勅命令が、小藤大佐のところで握りつぶされている。このことは、鬼頭春樹の本にもあるが、今回の海軍の史料にも、伝えるべき奉勅命令を、小藤大佐が伝えなかった様子が、はっきりと記されていた。
国民や政府に向かっては統帥権の独立を振り回し、自分たちは奉勅命令を握りつぶすという、このことひとつ見ても、旧日本陸軍がどんな組織だったかすぐにわかる。
軍の小隊を動かして、まるごしの年寄りを九人も殺して、それで、天皇親政をめざしたというのだが、その実は、軍事力による天皇脅迫にすぎないのは明らかで、それを昭和維新とか称して、義挙のつもりでいたのがおぞましい。
しかし、二・二六事件の将校たちが、天皇に帷幄上奏するつもりだった提案が、戦後、GHQが行った農地解放より穏健な内容にすぎなかったというのは、ブラックジョークすぎて笑うに笑えない。
その後の戦禍のすさまじさと、戦後の経済復興を見くらべれば、その程度に大胆な施策を行う決断は、つねに政治に求められるのだろうと思う。そうでなければ、ただ、現状に流されるだけになってしまう。
この盆にはまた、初代宮内庁長官の田島道治が、戦後、昭和天皇とのやりとりを記録した『拝謁記』も公表された。
www3.nhk.or.jp
張作霖爆殺事件までさかのぼって、あのとき、厳罰に処すべきだったと後悔していたそうである。15年戦争と言われる戦争の全体が、陸軍による謀略だったと言っても、大して言い過ぎとも思えない。そういう陸軍の人間が、戦後、平気な顔をして議員になったりしているのを見ると、投票した人はいったい何を考えているのか、不思議を通り越して不気味。