『アートのお値段』

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アートのお値段 The Price of Everything

 オノ・ヨーコは「アートは、生きるに必要な遊びだ」と言った。
 そのアートを売り買いするのは、「遊び」の一部分なんだと思う。
 ジェフ・クーンズが自作について話す映像がある。そのあとで、誰だったかが、彼はまるで、映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のデカプリオだっていって、その映画のワンシーン、デカプリオが客に株を売り込むシーンが挿入されるのが、ジェフ・クーンズをモデルにしたのかっていうくらいそっくりでおかしかった。情熱的で前向きで人を惹きつけずにおかない魅力がある。

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ジェフ・クーンズ

 「ゲイジング・ボール」という、「巨匠の名画に球状の鏡を埋め込んだだけ(工程だけを言ってしまうとそうなる)」っていう作品の、制作現場を自分で案内していた。彼自身は描いていない。工房システムで、下働きの人たちが描いている。
 どこかで観たことがあると思いだしたのは、『世界で一番ゴッホを描いた男』だった。

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 中国にある、別名「油画村」ダーフェンでひたすらゴッホの複製画を描き続ける男たちのドキュメンタリー映画。中には「どこがゴッホだよ」と言いたくなる絵もあるなかで、主人公の描くゴッホはたしかにまだゴッホらしいんだけど、アムステルダムを訪ねて、本物のゴッホを観たあと、「本物とは似ても似つかない」と言うのが感動的だった(「アウラ」って言葉もまんざら空言じゃないのね)。
 そして彼は帰国後にオリジナル作品を描き始める。田舎に住むおばあさんの絵だった。
 『世界で一番ゴッホを描いた男』のゴッホの複製画は、ゴッホ美術館の前の土産物屋で売られている。ジェフ・クーンズの方は、オークションでコレクターが競り落とす。ガラスの球があるかないかで億の差。この価格の差は情報の差だろう。人は情報にカネを払い、情報を食い、情報を着て、情報で殺しあう。
 その情報は誰が作るのか、は、たぶん誰もわからない。誰かが操作してるの なら、話はもっと分かりやすい。株の売買と同じなんだと思う。
 それは、まだ駆け出しのアイドルを応援するとか、テレビで見ないコメディアンのライブに通い詰めるとか、そういう心理に似てる。「こっちのが絶対おもしろい」、「売れなきゃおかしい」、「な、売れたろ」とか、そういう楽しみ。たしかにそれもアートの「遊び」のひとつだと思う。でも、アートの楽しみってそれだったんだっけ。
 この映画は、サザビーオークションを遡る6週間のさまざまなシーンを同時的に映している。そのオークションを取り仕切っているエイミー・カペラッツォが、「美術館?、墓場だわ」って言う。

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 たしかに、そう思うことはある。特に、茶器などは、茶会に使わないと悪くなる気がするなあと思う。
 茶というアートの場を発明した千利休はすごいと思う。絵画、陶芸、建築、庭園などを生きた状態で楽しめる場をプロデュースした。
 美術館が墓場だとしても、オークションで買ったコレクターが、それを私蔵しても同じことじゃないだろうか。コレクターのステファン・エドリスは、結局、コレクションを美術館に寄託するのだし。
 コンセプトアート、モダンアートと言いつつ、結局、美術館てふ金魚鉢の外には飛び出さないとなれば、千利休の方がはるかに先に行ってるってことにならないだろうか。千利休は、地位も名声もカネも手に入れた上に、アートの最先端を走ってたわけである。
 ラリー・プーンズなどは、長らく忘れ去られていた画家だったのを、最近また脚光をあびている。

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ラリー・プーンズ

 この映画のように、同時的に俯瞰すると、画家のそういうカムバックは、結局、マーケットの要請にすぎないことがよくわかる。アートを投資対象とする富裕層が増えているのだろう。ソウル・ライターが、晩年に突然また脚光を浴びたりしたのもそんなマーケットの動向が関係していたのだろうと思った。ラリー・プーンズ自身は、一度脚光を浴びた60年代をふりかえって、「あのまま続けていたら、間違いなく死んでた」と。

saulleiter-movie.com

 アーティストはマーケットの要請に応えてアートを作り出せたりはしない。アーティストがマーケットを制御できないのはもちろんだが、マーケットもまたアートを制御できない。ここにもまた、世の中の他の諸相と同じく、齟齬しあう幻想があるだけだ。
 ある評論家が、ポロックが自分の作品を前に呟いた「これは絵なのか?」を引き合いに出していた。画家自身でさえ絵であるかどうかわからない。それが絵なのに、それにかりそめの価格をつけて取引することにどんな意味があるのか、虚しい気持ちになる。そういう人間は、何に付け、売り買いに向いてないのだろう。絵画の価値は、その外にある気がしてしまうのだ。
 また別の評論家は、レンブラントの自画像を前に、「この視線は食堂の壁に飾るには、あまりに内省的すぎる」と。だから、美術館にあるべきなのだという意味だったかもしれないが、しかし、インターネットもテレビも、電気すらなかったころの食卓を囲む人々には、レンブラントの自画像が身近でありえたかもしれない。
 レンブラントが身近だった生活を、仮にでも、想像してみても良いのかもしれない。美術館にしても、マーケットにしても、アートと生活を隔ててゆくのだとしたら、アートにとって、それは危機なのかもしれない。