『ベニスに死す』

 午前10時の映画祭で『ベニスに死す』。

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『ベニスに死す』でタージオを演じたビヨルン・アンデレセン

 トーマス・マンの原作を翻訳で読むカタカナの「ヴェニス」よりも、ルキノ・ヴィスコンティの映画の浜辺から、主人公の眺めている、波がきらめく午後の海の方がよいに決まっているけれども、ビヨルン・アンデレセンの演じた「タージオ」の美少年ぶりが、それを見つめる主人公の悔恨そのもののように輝いている。
 最近流行りの「LGBT」映画と一線を画しているのは、芸術家にとっての、美と老いという普遍的なテーマに換装されているためでもあるが、「政治的な正しさ」という免罪符を手にしないまま同性愛を描いているからである。
 というより、実のところ「同性愛」と一般化される以前の、もっとデモニッシュな衝動を描いている。主人公は、何の行動も起こさない、それどころか、いったんは、ベニスを去ろうとするのだが、その唯一の行動すらも、鉄道会社の手違いではたされない。
 主人公はただ見つめているだけ。「タージオ」の美少年ぶりを眺めては回想している。「老いほど不純なものはない」というセリフは、原作にあったかどうか思い出せないが、たぶん、ヴィスコンティが書いたのだろう。
 主人公は老い、シロッコと呼ばれるアフリカから吹いてくる、湿った南風に吹き付けられるベニスは、流行り病に侵食されてゆく。消毒液がまかれ、観光客は姿を消す。
 主人公が言葉を手繰って過去に戻ろうとするのとは対照的に、少年は、ひとことの言葉も発しない。しかし、ときにまなざしを返し、おくれがちに追跡する主人公を待ちさえする。それは、おぞましいほど。
 少年は、美しく、おさなく、何を懼れることもなく、崇拝を当然のことと受け入れるが、何を返すつもりもない。主人公は、少年に触れるどころか、声をかけることすらできない。
 ここにある二重の禁忌、少年の冒涜的な美しさと、それをたたえる主人公のまがまがしい崇拝。こうした禁忌を昨今の「LGBT」映画は持っていない。
 同性愛がまだ犯罪視されていたころのヴィスコンティの映画の方が、政治的な正しさを振りかざす今の「LGBT」映画よりずっと豊かに感じられる。現代の禁忌はたぶんどこか別の場所に潜んでいるか、目の前にあるのに気が付けずにいるのだろう。