昨日、「円山応挙とコートルード美術館展」と題して書き始めて、円山応挙だけ書いて寝てしまったので、今日は、コートルード美術館展について書く。
といっても、何を書くということもないので、一緒にするつもりだったのであるが、寝てしまったのでしょうがない。
ところで、応挙寺と呼ばれる大乗寺に、応挙自身は「一度も訪ねたことがない」とわかったらしいね。
こないだからずっと上野の美術展の話ばかりしているような気がするが、こんなに好みの展覧会がそろったのもめずらしい。松方コレクション展も、フィンランドの女流画家展もまだやってますしね。九月二十三日まで。
コートルード美術館が改装中なんだそうで、普段見られない絵が観られる機会になってます。
セザンヌの絵が何点か来ていたんですけど、セザンヌの描いた木々の絵は、どの絵の色もほとんど同じ。モネにくらべると、色にほとんど興味がなかったみたいに見えます。
上の絵なんて、キュビズムまであと一歩。セザンヌが、シャルダンとピカソをむすぶ線上にいると思わせる一枚。
ルノワールの晩年の女性像の美しさが分かるのには時間がかかった。プルーストが「ルノワールの女たち」と言ったのは、このころの女たちではない。イタリア旅行から帰った後のルノワールの変貌ぶりは、コレクターやパトロンを戸惑わせたそう。
この靴ひもを結ぶ女の重たそうな上半身と太い腕の量感。印象派の画家としてスタートして、絶筆の浴女にいたるまで、パリの人気画家だったころのルノワールに目を奪われていると、晩年の裸婦は見えなくなってしまいがちだけども、晩年のルノワールのアトリエをよく訪ねたマチスは、ルノワールの絶筆《浴女たち》を最高傑作と言っていた。
ゴーギャンは「足フェチ」だったそうです。この絵なんか足の指の方が顔より表情が豊か。
シニャックなのに点描じゃない。下書きだったかもしれないそうだが、こんな風にさらっと描いた絵に画家の肉声が聞ける気がする。
オルセー美術館総裁だったギ・コジュバルが絶賛して最近ときどき観るようになったエドゥアール・ヴュイヤール。
シャイム・スーティンは、国立西洋美術館の所蔵にもある。こういうポートレートが多いんだけど、時代の不安さがこういう絵を描かせるんだろうなと思っている。