ニューズウイーク日本版のキャロル・グラックとヤン・ヨンヒの文章が面白かった

 ニューズウィーク日本版は、慰安婦問題について、偏りのない記事を積極的に書きつづけているメディアだと思う。
 今週号には、コロンビア大学教授のキャロル・グラックが「日韓が陥る「記憶の政治」の愚」と題した文章を寄せてこう結んでいる。

 そして、過去を政治の武器として利用することは、前向きではなく、後ろ向きに生きるということだ。過ぎ去った過去が、これから訪れる未来を危機にさらすーーーそうした事態を許すということだ。

 
 ちなみに、このキャロル・グラックは以前にもニューズウィーク日本版誌上で、戦争の記憶についての特集を4週連続で組んだことがあった。新書にまとめられているようである。
 

戦争の記憶 コロンビア大学特別講義 学生との対話 (講談社現代新書)

戦争の記憶 コロンビア大学特別講義 学生との対話 (講談社現代新書)

 映画『かぞくのくに』の監督ヤン・ヨンヒの文章も興味深かった。『かぞくのくに』は、井浦新安藤サクラが在日北朝鮮人家族の兄妹を演じた、監督の自伝的映画だったので、ヤン・ヨンヒ監督は、当然ながら、北朝鮮の人なんだと思っていたが、そうではなく、彼女の両親は、1948年に、済州島で韓国軍と警察が市民30000人を虐殺した「済州4・3」で多くの身内を殺され、日本に逃れてきたそうだ。
 その経験があるので、彼女の両親は北朝鮮籍を選んだのだった。両親の戸籍が済州島にあるので、ヤン・ヨンヒ自身は、今は韓国籍を取得しているそうだ。
 個人的には、金大中という政治家を尊敬している。たぶん、戦後の東アジアで最も重要な政治家だったんではないかと思っているが、言い換えれば、金大中以前の韓国の印象は「拉致」と「拷問」以外のものでなく、今の若い人には信じられないだろうが、北朝鮮よりはるかに印象の悪い国だった。
 あの頃のことをすっかり忘れて、日本の批判だけを繰り返している。記憶の政治利用とは都合のいいものだと思う。 
 慰安婦問題自体は、まさに記憶の問題であるだろう。それも、記憶の混濁の問題。その慰安婦問題というのが何であれ、なぜそれが日韓の外交問題になるのか、まったくわからない。そもそも何を謝れと言っているのかも正確には分からない。慰安所そのものについて謝れといっているわけではないのだろう。慰安所に意思に反して強制的に働かされた女性に対して謝れといっているはずである。
 すると、強制的に働かされた人と、そうでない人に明確な線引きが出来なければ謝罪できないはずである。しかし、それは現実には非常に困難だし、該当する人たちが高齢化しているのだし、という理由で、アジア女性基金という形で救済措置をもうけたのだし、実際、その謝罪をうけいれた元慰安婦も多いのだけれど、そういう人たちを非難して日本政府の公式な謝罪以外認められないと言うその根拠は、実は何もないのだ。
 その根本的な認識自体は、記憶から抜け落ちてしまい、感情の記憶だけが対立をあおっている。この問題が根深いのは、例えば、日米の間の戦争の記憶をいえば、真珠湾攻撃も、原爆投下も、その事実に議論の余地はない。ところが、慰安婦問題のその問題の事実はどこにあるのかがいまだに明確でなく、にもかかわらず、対立の激化が、その事実をさらにあいまいにしていく構造になってしまっている。実際には、対立の激化が慰安婦問題を生んだのであって、慰安婦問題が対立を生んだのではない。
 つまり、反日感情慰安婦問題を生んだのであって、その逆ではないのだから、これは解決しようがない。なぜなら、解決したくないのである。だから、何度合意しても、そのたびに反故にするのだ。
 日本側も含めて、この交渉はかなり滑稽なものである。そして、国際的には、なかなか下世話な見世物であるだろう。だからこそ『主戦場』のような映画も作られるのだが、見世物は祭りを巡回するだけ。オチは期待できない。