『昭和史』読みました

 

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

 

 

 半藤一利の『昭和史』を読んだ。

 もっとかたい本かと思ったら、口述筆記なのか、語り口調で読みやすかった。

 昭和天皇って人は、つくづくふつうの人だったと思う。それにまして、ふつうでありたいと願っていたと見える。二・二六事件を回想して、立憲君主の立場を踏み外したと悔やんでいるようだけど、今から振り返ると、その踏み外した時が一番評価できる気がする。

 もう一度、踏み外したのは、ポツダム宣言の受諾の時、つまり、天皇が直接終戦の決断を下したときだった。それを考えると、昭和天皇立憲君主にこだわりすぎず、絶対君主のようにふるまっていたら(と、たらればを言っても仕方ないとしても)、戦争を回避できたのではないかと、妄想しないではない。

 『昭和天皇独白録』は、張作霖爆殺事件から語り始められているという。それが陸軍の仕業と判明した時点で、首謀者を厳罰に処する方針で、宮中も政府も一旦は固まっていたそうだが、西園寺公望が寸前でためらった。

天皇陛下自ら総理大臣に辞めろというなど 、憲法上やってはいけないこと 。賛成した覚えはない 」というわけです 。驚いたのは牧野内大臣で 、 「あなた陸軍を抑えなくてはならないとおっしゃったじゃありませんか 」と迫っても 、・・・天皇は総理大臣の進退について余計なことを言ってはいけない 、と主張しはじめるのです 。牧野さんの日記には 、 「あまりの意外に茫然自失 、驚愕を禁ずるあたわず 」とあります 。

  この時陸軍に厳しく対処できていればと悔やまれる。たとえ、憲政の常道でなくても。

 この「たられば」に加えて、もうひとつの「たられば」を言えば、二・二六事件のとき、青年将校が帷幄上奏しようとした要求が、皮肉にも、戦後、米軍が行った農地解放より穏健なくらいの内容だったと聞けば、国家的な危機に際しては、大胆に常識を踏み外すことも必要だと、これは諸刃の剣ではあるけれども、確かにそう思う。

 余談ではあるが、司馬遼太郎ノモンハンについて書かなかった理由についての考察が興味深かった。

ところが 、準備は十分できた 、一歩踏み出せばそのままお書きになるのではないかと思っていたところに 、司馬さんが 「ノモンハン事件は書かない 」と言い出したのです 。なぜ書かないのか 。 「これだけ準備ができているのに 」と聞くと 、 「とにかくもうその話はするな 。ノモンハン事件を書くということは 、おれに死ねということと同じだ 」というふうにおっしゃいました 。

 半藤一利の推察では

想像ですけれど 、司馬さんが書くとすれば多分 、その須見元連隊長──ノモンハン事件の最初から最後まで第一線で勇猛果敢に戦った方で 、しかも上層部への批判には容赦がなかった 。しかしながら 、戦死しなかった 、というとおかしいのですが 、生き残ったために 、その後 、さながら卑怯者よばわりされて 、陸軍から追われたんです 。その事態が既に 、当時の陸軍は何をしているのかということの証拠ですが 、ともかくそういう立派な方です──を主人公に 、いわゆる司馬さん好みのさわやかな 、批評精神をもった軍人として書かれたのではないか 。ところがその方から絶交状を出されてしまっては 、ついにお書きになれないのではないか

ということだそうだ。

  ノモンハンについては半藤一利の『ノモンハンの夏』を読んで、日本陸軍のクズぶりを堪能したが、最近では田中雄一の『ノモンハン 責任なき戦い』が出ている。

 ノモンハンの戦いを勝利したジューコフスターリンに謁見した際、日本軍について聞かれてこう答えたそうだ。

「彼らは戦闘に規律を持ち、真剣で頑強。とくに防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。(略)士官たちは、とくに古参、高級将校は訓練が弱く積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです。云々」

  スターリンと日ソ不可侵条約を結んだ松岡洋右のもとにウィンストン・チャーチルが駐ソ英大使に託した手紙が面白かった。諄々と理路整然と、日本が独伊と組む不利益について書いている。それに対して、松岡洋右が返した返事というのが

「日本の外交政策は 、たえず偉大な民族的目的と八紘一宇に具現した状態を地球上に終局的に具体化することを企図し 、・・・」

八紘一宇の女が大臣にならなくて本当によかった。