『宮本から君へ』

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宮本から君へ

 「ラグビーの印象わるっ。」と思った。「タイミングわるっ」とも。
 もっともこの映画はいま公開される予定ではなかった。ピエール瀧が出ているので、例の薬物事件がらみで公開が遅れたのだ。
 役者がひとり薬物依存だったからといって何百人という人がかかわった映画丸ごと非公開にすることはないじゃないか。ただの陰湿なイジメにすぎないと思う。そういう隅っこより、関西電力原発マネーとかに怒りを向けなさいよ。
 映画は、観終わった後、心臓がドキドキしているくらいストレートな西部劇、しかも青春西部劇。池松壮亮がアラン・ラッドだとすれば、ピエール瀧ジャック・パランスなのかな。
 ピエール瀧と一ノ瀬ワタルのラグビー親子に対する池松壮亮の体格の差が、ビジュアルとして実にストレートに対立構造を示していて、時間は過去と現在を自在に行き来するのだけれど、こんがらがらないのは、その対立構造が分かりやすいからだろうと思う。
 対立構造というか、もっと単純に「決闘」で、そこに盛り上げるように、時間を行き来してて観客の感情をリードしていく。
 なので、テーマを掘り下げるというようなことはなく、宮本(池松壮亮)と真淵拓馬(一ノ瀬ワタル)の決闘がすべてで、そうやって、ストレートにやるってなったときに、池松壮亮の宮本のキャラづくりの振り切り方がやっぱりさすがだと思った。『よこがお』『だれかの木琴』『紙の月』の色気は完全に消し切ってる。
 逆に言えば、池松壮亮のつくった宮本のキャラがすべてで、そこに迷いがない。たぶん、テレビドラマからそのまま移行したキャスト、監督なので、キャラがこなれている利点はあったかもしれない。他のキャストも隅々のちょい役までもうキャラが生きている感がある。柄本時生とか、ほっしゃんとか、古館寛治とか。
 しかし、この西部劇が、じつは階級闘争でもあることに気づかずにおれない。宮本は大卒の営業マンなので、実のところ、貧困とはいえないのだが、しかし、映画的な描かれ方として、社長の息子でラグビーの元日本代表である拓馬との比較にヒエラルキーが感じられるようになっている。『JKエレジー』にも感じたことだが、こういうところに、というのは、表立って意図されていないところに、そういう意識があり、それが観客に訴えているということは、そこに時代の閉塞感が現れているとみるべきだろう。
 元も子もない話をすれば、そもそもなぜこの映画にレイプが描かれなければならないのかということである。なぜ、拓馬は靖子をレイプしたのかは、全然描かれていない。まるで、金持ちの息子で勝ち組の男はレイプする存在だとでも思っているかのようで、それを観客があっさり受け入れているのであれば、そこに、時代の必然性があるということだ。
 それは、ちょっと、あまりにも直接的な例で、むしろ、不正確になるが、伊藤詩織さんのレイプ事件をめぐる権力の不当さに現わされる、社会の理不尽さだろうと思う。
 話がそれるが、いま、なぜリベラルが嫌われる、どころか、憎まれているかと言えば、リベラルの側からは、国民が右傾化しているからだということになるらしいが、冗談じゃないと思うのは、安倍政権のひとつ前は民主党政権だったのであり、それを実現させたのも、同じ国民なのである。先の選挙でれいわ新選組が躍進したように、信頼できる改革者があらわれれば、国民は喜んで票を投じる。来月の消費税増税も、決めたのは民主党政権だったのである。沖縄の基地移転とともに、裏切りとしかいいようがない。
 沖縄の基地移転について、今年二月に投稿されていた
ironna.jp
という記事に、

しかし、このような全ての努力にもかかわらず、結論を延ばしに延ばしたあげく、最後に自らの政治的思惑で一方的にこの「極み」の関係を断ち切ったのが、大田知事だった。それまでの知事は「県は、地元名護市の意向を尊重する」と言っていたにもかかわらず、名護市長が受入れを表明した途端に逃げた。

大田知事にも言い分はあるだろう。しかし、私は、当時の橋本総理の、次の述懐がすべてを物語っているように思える。「大田知事にとっては、基地反対、反対と叫んでいる方がよほど楽だったのだろう。それが思わぬ普天間返還となって、こんどは自分にボールが投げ返されてきた。その重圧に堪えきれなかったのかもしれない」。

 鳩山由紀夫にも同じことを感じる。沖縄の基地移転を表明して選挙に大勝したのだから、オバマと直接に対話しなければならなかったはずだった。結局、鳩山由紀夫も逃げたのであり、選挙民との約束を投げ出して逃げた国家元首が憎まれないはずがない。それを「国民の右傾化」とか言って見当はずれの批判をしているリベラルを私は信用しない。
 話がそれたのであるが、実のところ、この映画が醸し出している時代の空気として、的外れとまで言えないかもしれない。日本社会は、パンク寸前まで来ているというべきかもしれない。そのパンクも「burst」という派手なやつじゃなく「flat tire」という情けないパンク寸前に社会が陥っていると思う。倫理観のない権力者と無気力な庶民だけが残り、まともな人は出ていくのかもしれない。