『アートとは何か』アーサー・C・ダントーを読んで

アートとは何か: 芸術の存在論と目的論

アートとは何か: 芸術の存在論と目的論

 アンディー・ウォーホルの≪ブリロ・ボックス≫をめぐる、刺激的でありつつ、一面では退屈でもある議論が、重要であることはよくわかる。
 アンディー・ウォーホルが、一企業の一商品の流通用の通函にすぎない「ブリロ・ボックス」を、合板とシルクスクリーンを使ってコピーした≪ブリロ・ボックス≫は、どういう意味でアートでありうるのかについて、数限りのない刺激的な議論が交わされたであろうことは容易に想像できる。そして、そんな議論に、ほとんどのひとが本心ではもう食傷気味であることもほとんど自動的に想像できる。 
 にもかかわらず、その議論がいまだに重要であり続けるのは、それがなぜ、どのように重要なのかを、明確に提示できた批評家が、じつは、いないからなんだろうと思う 。
 「ブリロ・ボックス」に著作権を主張できるのは、アンディー・ウォーホルではなくジェイムス・ハーヴェイであることは間違いない。アンリ・リヴィエールがエッフェル塔を描いたように、アンディー・ウォーホルは「ブリロ・ボックス」を写したと主張できるだけだろう。が、おそらく、彼がそんな主張をするとはとても思えない。というのは、≪ブリロ・ボックス≫という事件をひきおこしえた、その張本人が批評家の車座に加わる必要はまったくないはずだから。
 ブリロ・ボックスに試されているのは批評家の側であるだろう。それは、ブリロ・ボックスの作家は、J・ハーヴェイであろうが、アンディー・ウォーホルであろうが、別段、批評家を試していないからでもある。通りすがりの鑑賞者も、別段、試されていない。
 アンディー・ウォーホルの≪ブリロ・ボックス≫に、私は、長谷川等伯の≪松林図屏風≫ほどに感動するかといえば、それはない。「ああ、そう」というだけである。ただし、それは、評価ではない。批評家でない私は、評価する必要がないから。
 これは以前にも書いたが、ベルナール・ビュフェがニューヨークを描いた一連の作品を、私は何度も観ている。最初にたちすくむほど感動したとき、「こんなすごい絵は初めて観た」とブログに書いたが、実は、それは二度目だったと、あとでわかった。それよりはるか前にも展覧会で観ていたのである。感動の背景には、意識されるにせよ無意識にせよ、ストーリーがある。それを他人にあれこれ言われるすじあいはない、と同時に、それを他人に押し付けることもない。しかし、その感動を伝えるべきメディア(ダントーのこの著作では「メディウム」と単数になっている。たしかにその方が正確)が何かあるかといえば、アート以外にない。
 何かおいしいものを他人に伝えようとすれば、それを相手にたべさせるしかないが、いうまでもなく、それを相手がおいしいと感じるとはかぎらない。それでも、まず食べてもらわなければ始まらないにもかかわらず、あいだに鍋奉行みたいなやつが割って入って、のばした箸を叩かれるみたいなマネは余計なお世話なのである。
 ポントゥス・フルテンがアンディ・ウォーホルの死後、1990年に、≪ブリロ・ボックス≫を大工に100個作らせて、「本物」の鑑定書をつけて世に出した。このフルテンの≪ブリロ・ボックス≫がオークションに出されたことがあって、そのときの開始値は200万ドルだったそうだ。
 ポルトゥス・フルテンは現代アートを創ったといわれる名キュレーターだそうだが、これ以上に見事な≪ブリロ・ボックス≫についての批評はないのではないか。≪ブリロ・ボックス≫というスフィンクスの前を通過できたのは、ポルトゥス・フルテンだけだったのかもしれない。
 アーサー・C・ダントーはこう書いている。
「しかし、それよりも、このアート批評の二つの要素がなお関連付けられていない。つまり、ハーヴェイについての説明と、ウォーホルについての説明がオーヴァーラップしていない。ウォーホルのレトリックは、ブリロ・ボックスそれ自体のレトリックと何ら直接的な関係が与えられていない。」
 つまり、従来の批評によれば、ハーヴェイのブリロ・ボックスがアートであるとするならば、アンディ・ウォーホルのそれはアートではない。アンディ・ウォーホルのブリロ・ボックスをアートと認めるならば、ハーヴェイのそれはアートではない。しかし、現実にその両方ともがアートであり、その両方をアートたらしめているのが、批評であるのだとすれば、否定されているのは批評なのである。
 この事態の発端が20世紀初頭のマルセル・デュシャンの便器にあることは間違いない。

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≪泉≫マルセル・デュシャン

 吉田健一は、批評が文学であると言ったが、第一次世界大戦のさなかに発表されたこの作品こそ、むしろ、批評だったのである。批評家たちはこれがアートであるかどうか躍起になって鑑定しようとしたが、自分たちこそ批評されていることに気が付かなかった。
 マルセル・デュシャンは、クールベ以降、アートは「網膜的になった」と批判していた。それはでも、ずっとのちのことであることも書き添えたい。
 ダントーは、マルセル・デュシャンの≪泉≫の功績を、アートから美学を引き算したことだと書いている。これをブリロ・ボックスに置換すれば、ブリロ・ボックスの美を作り出したのはハーヴェイだが、それをアートにしたのはウォーホルだということ。
 この視点がデュシャンのなかで確信に変わるのには時間がかかったのだろうと思う。というのは、1912年、コンスタンティンブランクーシとフェルナン・レジェと、バリ近郊に航空ショーを見に出かけた時、巨大なプロペラを目にしたデュシャンは「絵画は終わった。いったい誰があの巨大なプロペラにまさるものを作れるというんだ?」と発言している。
 機能のしからしめる必然から生まれたにすぎないプロペラの形を絵画と比較する態度は、デュシャン自身のことばでいう「網膜的」な態度と言わなければならない。第一次大戦がはじまったのち、≪泉≫を発表したときのデュシャンがこのときのことを意識していたかどうかははっきりしない。
 ≪泉≫は、リチャード・マットという偽名で発表された。デュシャンは審査員の立場でそれを審査し、雑誌に「リチャード・マット事件」を寄稿した。そのなかに「網膜的」なものへの批判はあらわれていない。「有用性」を消去して「その物体についての新しい考え方を創り出した」と書いている。これはむしろ、プロペラの機能を無視してその存在に圧倒された感覚に近いと読める。
 そして、「絵画は終わった」のことばどおり、マルセル・デュシャンは≪泉≫を最後に、事実上、活動を停止する。
 ≪泉≫は、時間をかけてその意味を変えてきた。あるいは、その意味を露わにしてきたといえるかもしれない。しかし、≪泉≫を発表したときのマルセル・デュシャンに、「美」をめぐる状況に対する批判がなかったとは言えないと思う。ルネッサンス以降の西洋美術の頂点に巨大なプロペラが君臨するように見えるのが、「美」の概念だとすれば、やはり、その概念はどこかが間違っている。そうした心理がなければ、≪泉≫はなかったろうと思える。
 『アートとは何か』というこのアーサー・C・ダントーの著作は、アートと美とを峻別する明晰な論考になっていると思う。
 アンディ・ウォーホルの≪ブリロ・ボックス≫もJ・ハーヴェイのブリロ・ボックスもアートであり、見た目が全く同じながら、別々の作品でありうる以上、アートは美ではない。
 マルセル・デュシャンの≪泉≫以降、アートは美をよりどころにできなくなってしまった。美しいだけでは、アートだとは言えなくなってしまった。では、アートとは何か?の結論の方はそこまで説得力がないように思う。