新井浩文の実刑判決について

 女性の反感を買うのは承知だが、それでもひとこと異議を申し立てておきたいのは、新井浩文の強姦事件なのだ。
 これは、個人的に「強姦」という言葉が持っているイメージとかなり違う。TBSのワシントン支局長山口敬之がやったやつ、個人的にはあれが強姦だと思うのだが、あっちは嫌疑不十分で不起訴になっている。それと比較してこのバランスはおかしいと思う。
 しかし、あえて、法の平等の問題をもちださないとしても、この事件の気持ち悪さは、その背景にある価値観がまるでヴィクトリア朝の道徳、いまでは、スノビズムと同義語と理解されているだろうその道徳観であるかのような気持ち悪さなのである。
 「『性表現規制の文化史』 猥褻と純潔について」という記事にも書いたが、「純潔」という、たんに性的に無知で未経験であるにすぎないことを「道徳的な優越」ととらえて、女性は男性に道徳的にまさっていると考えていた時代があった。
 こういう世迷いごとにすぎないことが、いまだに道徳として通用しているとすれば、それは修正されるべきだと思う。性に無知で未経験であることは、幼稚で未熟であるだけなのだ。それを「純潔」とかいって崇め奉っていると、それは、崇め奉る側も奉られる側も、不幸なだけだとおもう。
 新井浩文氏のケースでは、そもそも、男女が密室でふたりきりでふれあうサービス業の業務中だった。事前に、「性的サービスを含みません」といった趣旨の誓約書にサインしているそうだが、日本には売春防止法があるのだから、その誓約書自体がすでにグロテスクなのである。つまり、性的サービスを含もうが含むまいが、密室で二人きりの男女が性行為に及ぶかどうかは、本人同士の意思次第なのは当然である。
 このケースで私がいちばん気持ち悪いのは、女性が部屋の電気を消すことに同意していることである。「部屋の電気を消すことに同意したのは、部屋の電気を消すことに同意しただけで、性行為に同意したわけではない」といったことを弁護士が書いていたが、それがホントに社会通念として通るかは疑問に思う。
 つまり、こういうことになる。その女性は、男と二人きりでマッサージをしていたが、そのとき「電気を消して」ということが「電気を消す」こと以外の意味を持っているとは夢にも思いませんでしたということになる。まさに「純潔」そのものだが、たしかに同意なしに性行為を強要されたのであればレイプといいうるが、この場合のこの純潔な女性に落ち度がなかったのかは、疑問に思う。
 さて、ここでさきほどいったん横に置いておいた山口敬之のケースを思い出してみる。TBSのワシントン支局長という地位を利用して、就職の相談に来た女性をレイプドラックで眠らせ、身動きのできない状態でレイプしている。が、この山口敬之を不起訴にした司法当局が、新井浩文のケースに実刑判決って、それは私は納得できない。弱い者いじめをしているだけだと思う。
 そして、やはり、それよりさらにおそろしいのは、実は性差別にすぎないことが、正義として通ってしまってるんじゃないかという懸念である。ネットの記事だけで真相は分かりかねるが、正義の名のもとで差別が行われる例は、歴史にはけっこうあるし、そこは警戒しておきたい。

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