鹿島茂コレクション アール・デコの造本芸術 高級挿絵本の世界

 12月23日まで、日比谷図書文化館で、「鹿島茂コレクション アール・デコの造本芸術 高級挿絵本の世界」展がやってた。
 鹿島茂コレクションは、練馬区立美術館で、1回目が、J.J.グランヴィル、2回目が、ジョルジュ・バルビエとジャン=エミール・ラブルール、3回目が、モダン・パリの装いと題して、ジョルジュ・バルビエ、シャルル・マルタン、ジョルジュ・ルパップ、アンドレ=エドゥアール・マルティのファッション・プレートと言って、今で言うファッション雑誌のグラビアかピンナップみたいなものだと思うんだけど、そのコレクションだった。
 この3回目を見逃したので、今回のがその埋め合わせになるだろうか。ともかく、2回目のバルビエとラブルールが素晴らしかった。特に、バルビエがバレエ・リュスに取材したイラストの数々には、それから興味を持つようになって、国立新美術館で開かれた「バレエ・リュス展」にも足を運んだが、バレエ・リュスそのものを観ることができないかぎり、「バレエ・リュス展」より、バルビエの絵の方が、はるかに、バレエ・リュスが、当時のパリにもたらした興奮を伝えてくれると思った。
 バルビエとラブルールの展覧会のとき、週刊文春の連載に鹿島茂

バルビエとラブルールのセット展という発想そのものが、十九世紀が二十世紀に決定的に変わった直接的原因が何かを知りたいという思いから生まれたものだが、結論から言ったらそれはロシア・バレエしかないということになる。

と書いていた。そして、

「ディアギレフの公演を比類ないものにしていたのは、装置と衣装を視覚的劇場芸術に合わせ、統合する、その手法だった。(中略)ケスラーは、まったく新しいものを発見して衝撃を受けたのではなく、すでに存在していたものの可能性を思い知らされたのである」

という

ディアギレフ―― 芸術に捧げた生涯

ディアギレフ―― 芸術に捧げた生涯

の一節を紹介していた。
 1909年5月19日のパリ・シャトレ座におけるロシア・バレエの公演は、一世紀に一度と言われるほどの衝撃を当時の人に与えた。それは、新しい美しさではなくて、美しいものを美しいと信じさせる、その見せ方の新しさだった。
 美という概念ではなく、美を現前してみせるその技術に魅了された。
 コンセプチュアル・アートを私は別に否定もしないけれど、つまり、その個々の作品は面白かったり、下らなかったりするのは、他の作品と変わらないけれど、ただ、「観念そのものがアートになる」なんてことは信じない。よく夏休みの宿題なんかで、「まだやってないの?」とか親に言われて「もう、頭の中ではできてるから」とかいう子どもがいるが、それは「できてない」のだ。「コンセプトそのものがアート」なんてのはこれと一緒でしょ。
 マルセル・デュシャンの《泉》が発表されたのは1917年、バレエ・リュスの活動期と重なっている。Wikipediaによると

『泉』は2004年12月、世界の芸術をリードする500人に最もインパクトのある現代芸術の作品を5点選んでもらうという調査の結果、パブロ・ピカソの名作『アヴィニョンの娘たち』を抑えて堂々の1位を獲得した(ターナー賞のスポンサーとジンの製造会社が実施)。『泉』の発表後、20世紀の多くの芸術家は「デュシャン以降、何が制作できるのか」という問いに直面しており、それに応えた作品が多く生まれている。

 《泉》が提示した問いかけのインパクトの大きさは否定しないが、《泉》を、コンセプチュアル・アートの守護神に祀りあげるのは、ただの思考停止だと思う。
 新たな研究では、《泉》の作者は、実は、マルセル・デュシャンではなく、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンという女性ではないかと考えられているそうだ。
 つまり、《泉》という作品も、作品としてつねにさまざまな解釈ができるからこそアートなのに、《泉》のコンセプトはこうだと評論家に決めつけられて、しかも、それを、コンセプチュアル・アートなどという、作品より先にカテゴリーが決まっている、つまんないことの御本尊に、崇め奉って、100年以上もその呪縛から逃れられないでいる、というのが実のところ、コンセプチュアル・アートの定義として正しいと思われる。
 鹿島茂の言うように、《泉》などより、現代の芸術に決定的なインパクトを与えたのは、バレエ・リュスの方だったろうと思う。
 それから、この展覧会について、鹿島茂本人が解説する動画があったので貼っておきます。


【本人解説】鹿島茂コレクション アール・デコの造本芸術 高級挿絵本の世界

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