『私のちいさなお葬式』観ました

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私のちいさなお葬式 シネ・リーブル神戸

 2019年の最後をロシア映画で締めるのもしみじみしている。チェーホフを思わせるほろ苦いコメディー。モスクワ国際映画祭で観客賞を受賞した。プロデューサーのニキータ・ヴラジーミロフは、この映画のためにマンションを抵当に入れたそうだ。
 主人公の老女教師エレーナ(マリーナ・ネヨーロワ)の隣人、リューダを演じたアリーサ・フレインドリフはニキータ・ヴラジーミロフの祖母。シナリオの初稿では、キャラクターの設定が違っていたというが、アリーサ・フレインドリフに当てがきする形で、結果的に、女同志の友情を感じさせる素晴らしいシーンが生まれた。この2人の女優は、ロシアを代表する名優だそうだ。
 原題なのかどうか知らないが英語のタイトルは「Thawed Carp」。「解凍した鯉」という意味が分かると笑ってしまう。
 昔、ロシアをバイクで旅したことがある。ロシアの田舎と都会のコントラストは、日本のそれとは訳が違う。この映画でもウラルかイシュのサイドカーが出てくる。田舎ではよくあれとすれ違う。輸送用のコンボイをのぞいては、クルマは中古の日本車でなければラダくらいだが、モスクワに入ると、ずらりとベンツが並んでいる。それまでと同じつもりで泥だらけのバイクウエアでホテルに入ろうとしたら、シルクハットのドアマンに他のホテルを紹介された。これが社会主義の結果した姿なのは皮肉な気がした。
 しかし、社会主義の結果かどうかはわからないが、男女差別はほとんどないように見えた。警察に2度お世話になったが、1度目のトップは女性だった。いわゆるガラスの天井はあるのだろうけれど、旅の途中に出会った人たちも、女性だからといって差別されている感じはなかった。というか、どちらかというと、女性の方が裕福にすら見えた。
 まあ、日本に比べれば、大概の国で女性が自由に生きていると感じるのだろう。何しろ、世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表する「世界ジェンダー・ギャップ報告書」のジェンダーギャップの少ない順位で、日本は年々順位を下げ続け、2020年版では153カ国中121位。先進国と言える状況ではない。
 また、人種や民族で差別されることもなかった。もともと、ロシア人自身が、自分たちをアジア人だと思っている可能性もある。
 宗教が、カソリックでもプロテスタントでもなく、原始キリスト教に近いといわれるロシア正教であるのも、西欧社会との差異と意識されているだろう。
 話がそれてしまったけれど、東洋でも西洋でもないという自己の捉え方と、それからくる孤独感は、ロシアと日本を似ていると感じさせる点だと思う。
 主人公のエレーナは、教職を退いたあと、ロシアの片田舎で一人暮らしをしている。ところが、ある時、元教え子の医者から、余命幾ばくもないと知らされる。都会でビジネスマンとして成功している1人息子は仕事に追われてほとんど顔を見せない。
 そこで、エレーナは、墓と葬式の始末を自分一人で済ませてしまおうと決意を固める。この主人公の行動が、さまざまな騒動を引き起こす。
 こう書くと、三谷幸喜風のシチュエーション・コメディーみたいな展開になりそう。だし、たしかにそういう展開になるが、実は、この一人息子が主人公と疎遠なわけはそんなに単純でもない、と、だんだんにわかってくる。単に忙しい働き盛り、というわけではない。そのあたり、『東京物語』の山村聰杉村春子とは、時代背景が違っている。そこが、この映画を単なるシチュエーション・コメディーより一段格上げしているところだと思った。
 成功を受け入れがたく思っている、世俗的な成功に価値観を重ね合わせられずにいる、そういう息子と、忙しい息子のためにとっとと自分の終活を済ませてしまおうとしている母は、奇妙なことに、どちらも、内心で自己を肯定できずにいる。
 同じく親子のすれ違いを描いても、経済成長のただなかですれ違っていく『東京物語』の親子と、どこへ向かおうとしているのか分からなくなっている社会ですれ違う親子はまったく違う。『アンナ・カレーニナ』の冒頭ではないけれど、「幸せな家庭は似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれに違う」。今という時代には、今の時代にしかない、誰も予期しなかった不幸があり、こんなはずじゃなかったと、呆然とたたずむことになる。
 この悲しみは、昔、小説で読んだり映画で見たりしたあの悲しみじゃない。あの悲しみなら覚悟していたのに、まだ誰も本にも映画にもしたことのない悲しみに襲われるなんて、小品だけれど、そんな本物の悲しみが刻まれている映画だったと思う。