ジャファル・パナヒ監督の『ある女優の不在』と同じ日に観たもう一つの映画がこれだった。
大泉洋、小池栄子、濱田岳、松重豊、皆川猿時、と、今を時めく、脂ののった役者さんたちが集まっているので、面白くないはずはないのだけれど、もともとは、ケラリーノ・サンドロヴィッチさんとこの舞台だったんですって。
その舞台を観ていないので、想像でモノを言うんだけど、たぶん、その舞台の方が、さらに、面白かっただろうと思う。とくに、皆川猿時、橋本愛、緒川たまきと、大泉洋、小池栄子がからむ一幕は、舞台ならもっとだろうと思う。
でも、ジャファル・パナヒの『ある女優の不在』と同じ日に観てしまうと、『グッドバイ』は、小劇場で見かけて面白いと思ったお芝居を映画に「してみました」みたいなノリにしらけてしまう。
お芝居を映画化、アニメを実写化、マンガを映画化は、それは、何のためにしてるの?、というところから理論武装が必要というか、レゾンデートルが問われるというか、もしかしたら、昔は、映画化すること自体が、「箔が付く」ことだったかもしれない。そのころはそんな理由付けが必要とは映画関係者は夢にも思わなかっただろうけれど、今はなんか違う気がしてしまう。
たとえば、こないだの『蜜蜂と遠雷』なんかは、恩田陸の原作小説を読むほうが断然よかった。それだけなら、当然かもしれないが、そうではなくて、途中で原作を咀嚼するのをあきらめて吐き出してしまったみたいな、そういう敗北感が漂っていた。小説を読んだ人で、あの映画に満足する人はいないだろう。小説を読むのがめんどくさいから、あらすじだけ再現ドラマにしてくれ、みたいなことが映画じゃないと思う。
『グッドバイ』は、太宰治の未完の絶筆。ということは、この小説を執筆中に女性と入水自殺したのだ。
でも、夏目漱石の未完の絶筆『明暗』が漱石の最高傑作だという意見があるようには、『グッドバイ』が太宰治の名作という人はそんなにいないと思う。
太宰治の代表作といえば『斜陽』や『人間失格』をあげる人が多いんじゃないか。それらを書いている敗戦直後のある時期、太宰治は若者から絶大な支持を集める大人気作家だったというイメージ。それからすると、絶筆『グッドバイ』は、もう少しくだけた感じ、戦争が終わった高揚感から抜け出した、良くも悪くも、それまでの太宰治とはちょっと違う、娯楽性の高い小説になりそうな気配を漂わせていた。
であるために、『グッドバイ』の続きを書いてみたいという誘惑は、作家を誘うものかもしれない。ひとつには、数多の愛人と別れるために、見た目は絶世の美女、中身は怪力の担ぎ屋を本妻に仕立てるという構造が、無限の変奏を可能にすること、もうひとつは、この執筆中に、実際に愛人と情死してしまった太宰治個人と、彼がその時代精神でもあった混乱の時代への興味だろう。
この映画の後半部分、つまり、太宰が書いていない部分に、そんなに違和感はない。そんなオチもありだろうという感じ。
これも、舞台で生の役者が演じているのと、映画で、戦後すぐの時代背景の中でとは感じが違ってしまうと思う。
太宰治の原作が連載され始めたのが1948年、小津安二郎の紀子三部作の第1作『晩春』が公開されたのが1949年でほぼ同じ時代だと思うと、時代とか、太宰治についての考察を期待して観に行くとはぐらかされる。
太宰治が生きていたら、あの小説をどう終わらせたか。とにかく、太宰自身は愛人と別れるどころか、逆に、心中死してしまった。井伏鱒二は、相手の女性が太宰を引きずり込んだ無理心中と見立てていたようだが、その説が立証されているわけではない。
この映画の原作となったケラリーノ・サンドロヴィッチの舞台の方は、いろんな賞を受賞している。小池栄子も読売演劇大賞最優秀女優賞を受賞している。
2.14(金)公開『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』本予告