『日本語が亡びるとき』を読みました

 この本は2008年に大ヒットした本だそうで、たぶん、本好きのひとのあいだでは論じつくされているのだろうと思う。
 先日、キム・ヨンハの『殺人者の記憶法』について、本の内容とあまり関係のないことを書いたのも、この本が念頭にあったからだった。
 私たちがいま読み書きしている、だけでなく、それで考えてもいる日本語という言葉は、吉田健一江藤淳の書いているように明治以降にだんだんと成立してきたものだった。吉田健一によると、近代日本文学の最高の作品は日本語そのものだそうである。
 トルストイの『戦争と平和』の冒頭に「私たちの祖先が話しただけでなくそれで考えたというフランス語」という言葉があったと思う。自国語でない言葉で考えるということがどういうことなのか、それを読んだときは深くも考えなかったが、私たち自身がいまそれでものを考えている日本語にしても、100年遡るとまだ成立していない。
 正岡子規が松山中学の生徒だったとき、「天、まさに『黒塊』を現わさんとす」という演説をしたのはけっこう有名な逸話だ。「国会」と「黒塊(くろいかたまり)」をかけている。ただのダジャレと思うのは私だけではないと思う。しかし、当時のひとたちはこれに感動した。当時の人たちは、いまよりはるかに漢語で考えていたのだろうと思うのだ。だから、「国会」という耳慣れない翻訳語が「黒塊」と同じ音であることは、当時の日本人にとって何かでありえた。
 今の私たちに、正岡子規のその言葉が全く響かないと言ってしまうのはフェアではないと思う。しかし、江戸時代の春画がいまの私たちにとってポルノでありえないように、この正岡子規の演説が、明治初期の日本人にどんな思いを抱かせたか、私たちは感覚的に理解できない。その意味ではたしかに、この時の正岡子規のことばは亡んだといえる。
 吉田健一の言う、近代の日本語を成立させた人のひとりである森鴎外は、ドイツに留学したとき、船を降りた第一声からすでにドイツ語が理解できていたという人で、ドイツの新聞紙上で論争を繰り広げたりしている。
 森鴎外は何語で考えたのだろうか。彼の場合、作家であるだけでなく、医学者でもあったことは大きいのだろう。医学について考えるというとき、その考える形式は、医学自身が規定する。
 一方で、森鴎外漢籍の教養は『渋江抽斎』を読めば圧倒される。東洋と西洋の知のアーカイブのどちらにも行き来できたことが森鴎外自身のことばを豊かにしたに違いないだろう。
 この本の著者は、「普遍語」「現地語」「国語」と、三つの概念を使って言葉を考えている。「普遍語」はたとえばラテン語のような読まれるべき言葉だが、日本語は、日本の土地で日本人がしゃべっている「現地語」であるだけでなく、「普遍語」と同じように、知的、倫理的内容を表現しうる言葉として「国語」でありえているということをこの著者は主張している。「亡びる」危機にあると考えられる日本語はこの「国語」なのである。
 長い間、学問は「普遍語」でなされてきた。膨大な知の蓄積の上に1ページを加えることが学問なのだから、それは当然だった。ところが、19世紀から二十世紀にかけてのある時期、学問が「国語」でなされるようになった。「普遍語」が更新されるべき時期に来ていたと言えるのだろうと思う。
 東洋と西洋の知が出会った時期であったこともあるだろう。ふたつの「普遍語」が出会ったとき、無数の言語が互いの意思を通わせあうために、お互いを翻訳しあった、その時期に、「現地語」と「普遍語」の両面の属性をもっている「国語」で学問がされることになった。そのとき、哲学や宗教よりも文学、とりわけ小説が、具体的に言えば、トルストイゲーテが、日本でいえば夏目漱石が、知のスタンダードと捉えられる時代があった。それは、日本やドイツやロシアに「国語」が成立していたからなのである。これは見失われがちな視点だと思う。
 そうした多くの「国語」のなかから、英語があたらしい「普遍語」として定着しつつある。これは現実だと思う。学問は結局ひとつの「普遍語」を必要とするだろうし、その「普遍語」が英語に集約されていくことはもう避けがたいと思う。
 しかし、「国語」がただの「現地語」に落ち着いていくのかは、多分、放置すればそうならざるえないだろうが、この著者がセルビアの大学の式典で出会ったジョージ・シラッキという物理学者は、微妙な思考をするときはどうしても母語であるセルビア語で考えてしまうのだそうだ。物理学といえば、「普遍語」よりさらに普遍的な共通言語でなされる学問だが、その同じ式典で、マーティン・パールというアメリカの物理学者が湯川秀樹の中間子の発見は、それがどんな思考法でなされたのか理解できないと絶賛する講演を聞いたそうだ。
 湯川秀樹の発見を、彼が日本語で思考するからだと短絡的に断ずることはばかげているが、20世紀のある時期、ラテン語のような「普遍語」ではなく、さまざまな国語で学問がなされたことの象徴的なことだとおもう。
 そもそも「ラテン語」なり「漢語」なりの「普遍語」が更新されることになったのも、そうした「普遍語」が永遠ではないことを示している。知の殿堂というべきものがあって、その継承のためにいま英語が選ばれたとしても、それは英語が他の言語に優っているというわけではない。人は母語を捨てることはできないし、「普遍語」と「現地語」をつなぐ翻訳を通して、自己更新し続ける「国語」は、「普遍語」同様に知の殿堂を豊かにし続ける存在だということが、ラテン語から英語へと「普遍語」が遷移してきた過程で明らかになったと思われる。
 具体的な例として『源氏物語』が、世界最古の小説として成立しえた理由が、実は、明治以降、西洋語と格闘した結果近代日本語が成立した時代と、漢語を受容しつつ平安時代の日本語が成立する時代が類似していたからだというのが面白かった。「普遍語」でもなく「現地語」でもない「国語」が成立したから小説が成立した。紫式部漢籍に詳しかったことは有名で、紫式部水村美苗のいう「二重言語者」だったといえるだろう。
 『源氏物語』が世界最古の小説であることは定説になっていると思うが、それがなぜ成立したのかについての説得力のある仮説を初めて聞いた気がする。
 面白いのは、正岡子規の「黒塊」と同じように、平安末期、明恵上人という人が「阿留辺幾夜宇和」という言葉を人生訓として掲げていた。「阿留辺幾夜宇和」は「あるべきようは」の当て字で、その内容がどうであろうとも、その言葉は普遍的な価値をもちえない。明恵法然批判の書『摧邪輪』を書いた人だった。明恵の「阿留辺幾夜宇和」は、法然の「南無阿弥陀仏」を意識したものだったと考えていいだろう。法然の念仏は「偏に善導に依る」と法然自身が言うように仏教の伝統を受け継ぐ意識であった。明恵は自分自身が仏教の正統であり、法然を奇をてらう新興宗教のように思いなしていたに違いないが、「阿留辺幾夜宇和」では何を言ったことにもならない。
 この本の言葉になぞらえると、善導を「普遍語」、法然を「国語」、明恵を「現地語」と考えることができるだろう。仏教が貴族の特権的専有物から庶民の信仰となり、日本的な仏教が成立していく。その同時期に日本語が成立していった。『源氏物語』には源信僧都をモデルにした僧侶も登場する。
 また、この著者の専門であるフランス語が、「普遍語」の座から転落した戦後の時期に、ラカンデリダロラン・バルトといった言語学者がフランスに輩出したのも偶然ではない気がする。
 江藤淳の「閉ざされた言語空間」という、戦後の日本語についての苛立ちは、あのひとの右翼的な言動もあって、どうにもうまくとらえきれないことでもあったが、この書はそれとはまた全く別のアプローチで戦後の日本語についての危機を浮き彫りにしていると思う。