『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』 ネタバレあり

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ニートエスティ

 『ロニートエスティ 彼女たちの選択』は、レイチェル・ワイズレイチェル・マクアダムスが、アイルランドユダヤコミュニティーを背景に、レズビアンの恋人を演じている。
 レイチェル・ワイズは、『女王陛下のお気に入り』でも、レズビアンを演じている。凛としている感じが立ち役っぽいのかもしれない。レイチェル・ワイズの演じるロニートは、早くに故郷を離れ、ニューヨークかどこかで自立している。故郷のコミュニティーの指導者(ラビってやつなのかしらむ)だった彼女の父親が亡くなった知らせを受け、葬儀のために帰国した故郷で、かつての恋人エスティ(レイチェル・マクアダムス)と再会する。
 エスティはもう結婚している。彼女の夫は、ロニートの父親の後継者としてコミュニティーのリーダーとなることを期待されている。
 ユダヤ人といっても、世界中に広がっているせいもあるのか、意識にグラデーションがあって『ブラック・クランズマン』のアダム・ドライバーが演じた警官は「ふだん自分がユダヤ人であることを意識することがない」みたいなことを言っていた。しかし、この映画で描かれているかぎりのアイルランドユダヤコミュニティーでは、敬虔な信仰をもっている人たちはユダヤ教の戒律を保って日々を過ごしている。
 日本に暮らしていると、戒律ってのがどんなものなのか、感覚的にとらえづらいところがあると思うが、ユダヤ教の戒律は、私の感覚では、禅の作法に似ている。確か、禅宗では、朝の顔の洗い方までちゃんと決まっていたかと思う。樹木希林の映画『日々是好日』に、茶の作法が描かれている。茶禅一味といわれるように、茶道も細かい作法の集積である。脚は何方の足から出す、とか、入り口から何歩で歩く、とか。意味がないようだけれど、その作法が見につくと、茶人になる。
 ユダヤ教の戒律を行うことで、ユダヤ教徒には誰でもなれる。戒律が神の前の平等を約束している、形式と内容の乖離のない世界だ。
 「戒律なんて不自由じゃないか」なんて意見に迷わず同調できるのは子供だけだろう。何でも自由な世界の生きづらさを身をもって経験している大人たちは、戒律に規定された簡素な生活に、羨望のためいきをつくかもしれない。
 問題は、ロニートエスティのように同性愛者であった場合。ユダヤ教に限定せずとも、同性愛が戒律に反するとする宗教のコミュニティーで同性愛者はどうふるまうべきかは、単に、少数派だからというだけで、これといった理由もなく差別される一般社会の同性愛者とは、まったく別の苦悩が生じることになる。
 というのは、その宗教を主体的に選択したのは自分自身の意志なのであって、その戒律に従うと決めたのは自分の信仰心からだから、ロニートエスティが互いに対して抱いている恋愛感情は、それが真情であったとしても、ここがたぶん日本人にはわかりにくいところだろうが、それに相反する宗教に対する真情もまた、エスティにとっては同じくらい強いもののはずだから、この映画で描かれている同性愛の問題は、一般社会によくある同性愛に対する偏見や差別の問題とは全く違う。エスティは、恋愛と信仰、どちらを選ぶべきかに揺れている。
 ロニートは、信仰を捨て、親を捨て、コミュニティーを出て自立している。ロニートは、エスティが望めば、彼女も自由を手に入れられることを知っている。しかし、ロニートにはエスティの信仰心が見えていない。
 エスティは、ロニートと恋愛感情を共有しているのとおなじように、彼女の夫と信仰生活を共有している。エスティにとっては、そのどちらを選ぶかは、ロニートのように自明ではないのだ。
 エスティは結局、信仰をえらぶ。これは、最近のLGBT映画には珍しい結末だと思った。問題がたんに社会的偏見であるなら、この終わり方にはもっと敗北感や挫折が匂うはずだが、この映画はそうではない。どちらかというと、自由なロニートの孤独が際立って見えた。