『砂漠でサーモンフィッシング』観ました

 先月、東京国立近代美術館にピーター・ドイグ展を観にいったら閉まってた。それ以来、二か月近くも美術展に行っていない。こんなことはいつ以来だろうか。
 映画と違って、アート作品はそれ自身を見なければ意味がない。紅白で米津玄師が歌ったので有名になった大塚国際美術館の陶板画なんかはオリジナルとはまったく違う。
 特に、ジョン・シンガー・サージェントの《 carnation lily lily rose》は、実物と並べてみるまでもない。素人目で見て、素人脳で記憶していてさえ、まるで色が再現できていない。試しに、検索してみると面白いと思う。少なくとも現時点でのカメラの色再現力がどの程度のものか、いちばんわかりやすい絵なのかもしれない。


How John Singer Sargent Painted Carnation, Lily, Lily, Rose | TateShots

 しかし、映画の方はとにかく配信で見られるわけなので、観ようと思いつつ見逃していた作品を観ている。

砂漠でサーモン・フィッシング (字幕版)

砂漠でサーモン・フィッシング (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

 『砂漠でサーモン・フィッシング』は、こういう機会に観ることができてよかった。
 原作は、ポール・トーディという人の小説。微妙に荒唐無稽なので、もしかしたら実話なのかと思わせるが、まったく創作のようだ。
 イギリスの国立水産研究所に勤めるアルフレッド・ジョーンズ博士(ユアン・マクレガー)が、中東情勢とイギリス政府の政治的思惑から、砂漠の国イエメンでフライフィッシングのできる環境を作るプロジェクトに関わることになる。
 ポール・トーディ原作のこの発端が秀逸。それだけを取り出すと、一見、荒唐無稽なことが、国際社会の同時代的状況と、西欧とイスラムの歴史的な経緯を串刺しにして、深まり広がっていく。ガリバー旅行記以来の彼の国の風刺小説の伝統を言いたくなる。
 イエメンにフライフィッシングができる川を作ろうとする大富豪シャイフ・ムハンマドが、フライフィッシングと信仰について語る台詞が印象的で、たぶんそれがこのシナリオの核になっている。
「あなたは釣り糸を垂れ、魚を何時間待ち続けますか?、12時間くらい?」
「時にはもっと」
「それが単に合理的な判断と言えるでしょうか?。それをfaithと言わず何でしょうか?」
これは、イギリスとイスラムのエリートが交わす会話として、まさに完璧だと思う。
 つまり、シャイフ・ムハンマドというこの架空のアラブの大富豪は、英国のフライフィッシングを、ただの趣味ではなく、ましてや日々の生業としてでもなく、文化として理解している。
 この映画は、一方では『アラビアのロレンス』であり、一方では『リバー・ランズ・スルー・イット』でもあるわけだ。
 シャイフ・ムハンマドの英国での窓口となっているコンサルタント会社の社員ハリエット(エミリー・ブラント)が、三峡ダムに携わった中国人とジョーンズ博士の通訳をするシーンがある。
「4年ぶりに中国語を話した」とか言う。日本人としては砂漠でサーモンフィッシングより非現実に感じられるかもしれないが、英国のエリートならたぶん当然なんだろう。佐藤優もロシア担当の外務官僚になるべくロシア語習得のために留学したのはロシアではなくイギリスだった。
 ハリエットとジョーンズ博士の恋愛も物語のもうひとつの縦糸になっている。この恋愛のストーリーに寄与する必然性も見事だと思った。
 ここはネタバレしてはまずいだろうと思うので伏せておくべきだと思うが、男女が何故惹かれ合うのかといえば、単に性欲だけではないとするなら、恋愛は文化的な行為だと言えるだろう。ややこしい言い方をしなくても、笑うことが一致するとかが恋愛にとって大事だったりする。それは、恋愛が文化を裏切れないということなのかもしれない。
 『ロニートエスティ』は、最近のLGBT映画には珍しく最後には自分の性的志向に反する選択をする。レイチェル・マクアダムスの演じるエスティは、性的志向はレズなのに、最後は夫と暮らすことを選ぶ。彼女は敬虔なユダヤ教徒で、ユダヤの戒律はとりも直さず彼女自身の文化でもある。自分の性的志向に正直にユダヤの戒律に背けば、自分を裏切ったことになる。一方で、若い日の恋愛に終止符を打って、戒律に生きても、自分を偽ったことにはならない。
 このあたりの価値観の対立がもっと鮮明に描かれていたら、あの映画は名作になっていただろう。監督が『ナチュラル・ウーマン』のセバスティアン・レリオということもあるだろうか、同性愛者に対する社会の抑圧が強調されていて、テーマがぶれて、までいわないにしても、際立っていなかったように思った。
 ロニートはすでにユダヤ社会を捨ててアメリカに住んでいる。個人の自由と権利の国、それはまたそれでそういう選択だと思う。ロニートの立場から見るとエスティは社会に囚われていることになると思う。そして、そう言っても確かに正しい。
 今ここで言いたいのは、ロニートの選択、エスティの選択、そして、この映画のハリエットの選択も、個人的な感情であり、それが偽らざる真情であるにしても自分自身の文化を偽れないということ。
 真情であるから自分を偽れない。文章にすると激しく同語反復になってしまうが、砂漠の川を遡るサーモンの姿に、この映画の3人は自分たちの思いを重ねられる。そういう具体的な依代に人は思いを託すだろう。シャイフの言ったように、そこにfaithがあって、その証として遡るサーモンの姿があれば、人はそれをfaithの依代にする。
 経緯を振り返れば3人の思いが別々なのはいうまでもない。同じ思いというのではなく、違う思いであっても、それを重ね合わせることができると信じている一点で、シャイフとハリエットとジョーンズ博士は違いを乗り越えられる。
 ジョーンズ博士は典型的な現代人でとっくに世俗化している。砂漠でフライフィッシングしようとするシャイフがごりごりのイスラム教徒であるはずはない。この2人を結びつけているのは、違いを乗り越えられるはずだと信じる教養なのである。
 ハリエットの選択は、男性から見るとほろ苦いものだ。もちろん、創作なので寓話だけれど、その寓意は鮮やかだと思う。ハリエットの元カレだったロバートは「砂漠でフライフィッシングなんて、どうせレジャーランドでも作って回収するつもりだろう」と、うっかり口にする。悪気はないのは間違いない。ただこの考え方が、3人と対照的なのは、どうせ人間なんてみんな同じだと思っている。人は皆同じという考え方からは差別しか生まれない。ここでハリエットとロバートは決定的にすれ違っている。
 映画的寓意としてはそうだが、もちろん、現実の恋愛では、こんな違いは乗り越えられるはずだと思う。ただ、ロバートに感情移入したりするのはバカげている。シナリオライターが「はぁ?」と言うだろう。これは余談だった。