『三四郎』

三四郎

三四郎

 羽田圭介が、おぎやはぎの愛車遍歴に出てた。週プレに車を買う連載をしてたので、その繋がりでもあるのだろう。60台試乗した連載を本にした。
 羽田圭介又吉直樹と一緒に芥川賞を受賞したのを、どこまで本気か、ラッキーだったと言っていた。亡くなった坪内祐三が、又吉直樹を高く買っていたんだけど、その一方で、小説というメディアがいかにマイナーになったか痛感したといったようなこと(詳しい文言はうろ覚えだ)を語ってもいたのを思い出した。
 羽田圭介は、小説がマイナーなメディアであることを所与のこととしてふるまってるようにみえる。どころか、なんか消えゆく伝統に携わってる人、例えば、刀鍛冶とか、能面うちとか、そんな人がテレビに出てるみたいな気さえしてしまう。
 坪内祐三は、又吉直樹との対談で、テレビに出まくっている羽田圭介を「クレバー」だと評していた。クルマの感想を聞いているだけでも、言葉で何かを表現するスキルの高さを感じる。確かに、大学で教えたりしながら書いているより、コストパフォーマンスがよいのだろう。それだけでなく、テレビに露出することが必要ですらある時代なのかもしれない。少なくとも、そう判断する作家がいても不思議じゃない。
 夏目漱石の『三四郎』を読んだ。こないだの水村美苗丸谷才一も、漱石を語るときに必ず言及する小説が『三四郎』。十代のころ読んだきりなので、時節柄、再読してみてもよいのではないかと思ったので。
 『三四郎』は、漱石のいわゆる前期の三部作のエピソード1にあたる。そのせいもあって、終わりかたは唐突な感じがするけれども、キャラクターの面白さでは、『吾輩は猫である』に勝るとも劣らない。佐々木与次郎みたいな人物は、その後の漱石作品には出てこない。
 政宗白鳥が、漱石は女を描くのが下手だと言ったのが有名になったおかげで、なんとなくそうなんだろうと思っている。正宗白鳥ほどの遊蕩三昧の人にそういわれてしまうと、たいていの人は反論もできない。
 しかし、『三四郎』のヒロイン美禰子の描き方は、三四郎の視点にたてば、このくらいの踏み込めない間合いでよい気がする。往きの汽車で出会った女のエピソードが効いている。それに、美禰子のお辞儀の仕方の描写が美しいと思った。
 漱石は当時、大人気作家だった。三部作のエピソード2にあたる『それから』の主人公「代助」は、当時の青年たちのポップアイコンだったらしい。内田百閒がそう書いてたかな。『漱石先生雑記帳』?。
 多分、そういう作家の系譜は村上春樹で終わったんだろう。羽田圭介を見ていてつくづくそう思う。多分、才能があるほど、小説というメディアに幻想を抱かないのだ。言い換えれば、小説というメディアに幻想を抱くほど無能じゃないのだ。
 でも、小説の幻想ってじゃあ何なんだろう。幻想を抱かせない小説って何なんだろう。
 漱石をめぐる毀誉褒貶はいつも面白い。水村美苗はもちろん『明暗』の続編を書くぐらいだからいうまでもない。あの本の中では、ジョン・アップダイクの「日本人がなぜ夏目漱石を偉大な作家というのかわからない」という発言にいたく傷ついていた。小林秀雄は、夏目漱石の何がいいのかわからない。江藤淳吉本隆明漱石についての本を何冊も書いている。坪内祐三は、漱石が好きか嫌いか分からないけど、吉本隆明を評価はしていなくて、言葉の端々から推測するに、漱石よりは鴎外の方が好きなんだろう。
 日本では、右派、左派の対立より、漱石派、鴎外派の対立の方が意味があるのかもしれない。小説に幻想を抱くか抱かないか。
 『三四郎』のラストシーンが美術館だったことは忘れていた。『草枕』は画家が主人公だし、漱石の文章の絵画的描写力を味わえるのは日本語が読める特権なのかもしれない。