謝る必要のないことは謝るべきではないという話

 ロラン・バルトがこう書いてました。
「言語がディスクールを二重化し、言葉の連鎖をたんなる意味の支持項にしてしまうような局面がある。」
「それは私が別のところでエクリチュールと呼んだ局面である。たとえば文学的エクリチュールにおいて、ディスクールは確かに字義通りの意義を有し、この点では対象と意味のいかなる分離も受け付けない。それはまさしく言語そのものである。だが、この同じディスクールが、用いられている言葉のそれとはちがった補足的な意味作用の支えとなり、そのシニフィエがまさに文学であるようなケースがあるのだ。」
「一篇の詩を書きながら、わたしは何かを語っているが、それと同時にわたしは詩を書き記しているのである。」
 この「詩」を「ジョーク」に書き換えると、岡村隆史の炎上事件にそのままあてはまる。
 つまり、ディスクールとしては女性蔑視の「発言」を語っているわけだけれども、シニフィエとしては、たんにジョークなんであってそれ以外ではない。
 断章的にディスクールの一部分だけを切り取ってそれがあたかも、岡村さんの意図であったかのように批判するのは、悪意のある曲解であって、捏造と言っていいと思う。
 また、ここでこの話を蒸し返しているのは、また、「ネットリンチ」でひとり死んだからだ。ちなみに、「ネットリンチ」というのは、その記事のはてなブックマークにあったタグで、そのタグをクリックすると、岡村隆史の例の記事も出てくる。おなじくネットリンチじゃないかという認識は正しいと思う。
 こういう事件がひきつづきに起こってしまうと、かえすがえすも岡村隆史には謝ってほしくなかったと思う。もう謝ってしまったからどうしようもないが、謝る必要のないことに謝っていると、社会正義が歪んでいく。 
 こんな風に誰かが死ぬまで止まらないし、たぶん、これからもまだまだ続くのだろうと思う。
 岡村隆史と木村花にほとんど共通点はないと思う。しかし、それを叩いている連中はほとんど同じだと思う。たぶん、関東大震災のときに「不逞鮮人」を虐殺した連中も同じだろう。
 わたしは個人的にリアリティショーを見ないので、どういうものか検索してみたら、これがいちばん分かりやすかった。

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テラスハウスは承認欲求と、自分のセルフブランディング、炎上を避けながら売名をするという、非常に高度な心理戦のもと成り立っている心理ゲーム番組だ。自分は非常に楽しみにしている番組のひとつなので、この件でテラスハウスが終了とならないことを願っている。」
 もし、観るなら、こういう風に楽しむのが正しいだろう。で、こんな風に楽しんでいるなら、どうしてSNSにいやな書き込みをするようなことをするのだろうかと不思議に思った。
 はじめらから「やらせ」とわかっている「やらせ」を演るのも観るのも、その楽しみはなかなか高度ではあると思う。しかし、演じる人が自分の承認欲求を制御しきれないときついのではないか。というか、承認欲求を制御できないからこそリアリティーショーに出てしまうんだろうし。

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