2月29日から休止していた東京国立近代美術館のピーター・ドイグ展がようやく再開したのででかけた。
この展覧会は2月26日に始まって3日で休止になってしまっていて、このままだと幻の展覧会になるところだった。私は確か3月1日に訪ねた。休館しているとは知らなかったので途方に暮れた。じゃあというわけで、行けそうなところを検索してみても軒並みに休館。とくにBunkamuraのソウル・ライターはとうとう行けずに終わってしまった。
後で気が付いたけれど、あの日はまだ神奈川県の美術館は開いていたので、県立近代美術館の鎌倉別館でやっていた関根正二展の後期展示にいけばよかった。≪信仰の悲しみ≫も見逃してしまった。
ピーター・ドイグは1959年スコットランド生まれ。デビッド・ホックニー(1937年~)より20年ほど若いが、ダミアン・ハースト(1965~)より5年ほど歳をとっている。学校を出たばかりのまだ若いころは、ジャン=ミシェル・バスキア{1960~1988}のような新表現主義みたいな絵を描いていたそうだ。
今のような絵の感じになったのは、10代をすごしたカナダに戻ってからだそうだ。どっちかというとこっちだなと思う何かがあったんだろう。
ピーター・ドイグがこういう感じをはじめた80年代のアートシーンでは、絵画は時代遅れの表現のように目されていたそうなのだ。そういう中で彼の作品は新鮮な感動を呼び1994にはターナー賞の候補にもなった。
ある評論家の文章に呆れたことがあった。「私がコンセプトを提供するので、だれか描いてくれれば素晴らしい作品ができるのだが」と。
猪熊弦一郎は「絵を描くのに必要なのは勇気である」と書いていた。まっさらな画面に最初の一本の線を描けなければ永遠に絵は描けない。
ピーター・ドイグの絵を観ていて、日本の何人かの画家たちの絵を思い出した。
まず頭に浮かんだのは、小西真奈(小西真奈美じゃないよ)。
それから、西村有。
池口史子もそうかもしれない。
結局、人は絵を描きつづけ、そしてそれを観続ける。マルセル・デュシャンの便器に100年以上も固執し続ける必要もないだろう。
どの絵も素晴らしかったが、特に気に入ったのはこの≪スキージャケット≫。
日本のスキーリゾートの広告写真がもとになっているそうだ。そのせいではないのだろうが、二枚の縦長の画面を継ぎ合わせ、二曲一隻の屏風のようになっている。画家自身はブリューゲルに言及しているらしいが、日本でいえば、洛中洛外図とか遊楽図とか犬追物とかですよ。80年代に流行ったヒロ・ヤマガタを思い出させもする。
この≪赤いボート(想像の少年たち)≫も素晴らしかった。右下のフラットな緑色が美しい。
この《ラベイルーズの壁》は、小津安二郎の「東京物語」を意識していたそうだ。キャプションには「エドワード・ホッパーを思わせる」とあった。確かに。
この《コンクリート・キャビン 2》の建物はル・コルビュジエのユニテ・ダビタシオンだそうだ。
他にも、ゴッホの種まく人かな、とか、ダヴィッドのマーラーの死かな、とか、ムンクの月明かりかな、とか、モローの死の天使かな、とか、色々な絵を思い出していた。
美術館巡り再開にふさわしい展覧会だった。
ちなみにこういうことだそうなので写真は撮りまくった。ただ、スマホの人はせめてシャッター音を消してほしい。
それから、入場制限のためにチケットは予約制になっていたので、私はチケットぴあで買ったが、その辺、是々非々らしく、人が少ない場合は飛び込みでも入れるらしい。手探りなんだろう。