週末に東京都現代美術館(MOT)に行ったらオラファー・エリアソンの展覧会に行列ができていてびっくりした。思い出してみると、東京はどこにいっても行列の町だった。なぜ新コロナウィルスの感染がさほど広がらなかったのか不思議。第二派こわい。
オラファー・エリアソンは、現代のアーティストによく感じることなんだけど、美術館って枠には収まりにくい感じ。
いちばんいいなって思ったのは、ミュージアムショップの横のところで流れていた映像の《フィョルドハウス》だった。
Fjordenhus - Olafur Eliasson
何であれ、この規模で箱モノから作ってはじめて、美術館で展示してある、こういうの
とか、こういいうの
とか、こういうの
とか、こういうの
の意味が分かる気がする。
小堀遠州が建築家ではないと同じように、オラファー・エリアソンは建築家ではないだろうし、彼の作品がフィヨルドハウスのインテリアでは、まったくないのだろうが、しかし、それと同じ意味で、美術館の展示品ではさらにないだろう。
なので、少なくとも、今回の展示にかんしていえば、多くの展示品が、フィヨルドハウスに焦点を結ぶように見えてしまう。サステナブルな素材という意味でも、自然との連続性という意味でも。
もともと美術館は、絵とか彫刻とか陶器とか、そういうものの展示を前提に設えられている。なので、現代美術の展示に関しては、いろいろと工夫が必要になるのだろうと思う。
昔、おなじく東京都現代美術館に吉岡徳仁を観に行った時は、外からベニヤ板が見えていてがっくり来たことがあった。
話はそれるけれども、偶然、情熱大陸で建築家・藤森照信が取り上げられていた。藤森照信の「建築緑化」の考え方は、オラファー・エリアソンとも通じるものがあると思う。
おもしろかったのは「芝棟」といって、屋根の上に草を植える習慣は、日本だけでなく、フランスにもあったのだそうだ。おそらく10000年も前から続いているだろうということだった。
4年前に造った「ラ・コリーナ近江八幡」は、今では、彦根城を抜いて、滋賀県トップの観光地なのだそうだ。
最近の現代アートの展覧会で成功した例としては、国立新美術館のクリスチャン・ボルタンスキーと森美術館の塩田千春だろう。どう見せるかという演出と作家の個性がぴったり一致していた。
塩田千春の作品は、線が三次元に飛び出しているのが魅力的だった。「ドローイングの可能性」は、先週末で会期が終わってしまったようだが、盛圭太、戸谷成雄の作品はそういう線の三次元化という方向は共通しているように見えた。
しかし、今日いちばん、観て得したと思ったのは、アンリ・マティスの『ジャズ』だった。
マティスの『ジャズ』の絵は何度も観ている。面白いとは思っていたけれども、そりゃ、若いころの油彩画の方が断然いいよねと思っていた。
だけど、今回の展示が面白かったのは、『ジャズ』の絵の部分と、文字の部分を、まるで、絵巻物みたいにずらりと並べて展示してあったことだ。
もちろん、フランス語だから、意味は分からない。もっとも、翻訳が小さなプレートで添えられていたけれども、それにマチスが言うには、その文章は、あくまで、絵のバランスのため、絵と次の絵をつなぐためにだけ書かれているものなのだそうだ。だから、意味なんてわからなくていいらしい。
『ジャズ』を、そうやって、文章と共に観たことはいままでなかったが、マチスの手書きの字と共に観るとすごくいい。そして、本の体裁よりも、絵巻物みたいにならべるともっといい。狩野山雪の≪雪汀水禽図屏風≫を、平面ではなく屏風としてみた時の感動とくらべてみたくなった。