『ビッグ・リトル・ファーム』ネタバレ

 自然農法ということばは、環境破壊ということが言われ始めたころ、たぶんレイチェル・カーソンの『沈黙の春』くらいからずっと言われ続けている言葉だと思う。
 しかし、その実態はどういうものなのかをふつうの人はどう知るかといえば、たとえば、テレビ番組で観たり、本で読んだりする。そこにはどこか教養主義の雰囲気が付きまとっている。
 教養主義が悪いかどうかはともかくとして、それはどこか本の世界で完結している。本を閉じてもどってくる「現実」と「自然農法」がつながっている実感を本やテレビは与えてくれない。
 これは、こないだの『三島由紀夫 vs. 東大全共闘』で話題にされていた「反知性」の問題なのである。教養が私たちの国ではなぜ現実に反映されないのかといえば、それは、私たちの国では教養が断絶しているからなのである。日本は、近世までの東洋的な教養と外来の西洋の教養を接ぎ木しなければならない歴史的立場に立たされたが、それに見事に失敗した。
 その接ぎ木の失敗が教養そのものの権威の失墜につながったと思うが、一見、教養主義的に見えようとも、自然農法の実際は実践であることは間違いない。それが何か他のことに見えてしまうことがたぶんあるのだろう。
 以前、野田知佑の講演を聞いたことがあるが、「日本では環境保護運動をやっているとなぜか反政府運動をやっているようなことになる」と、冗談めかして言っていた。
 この映画は、プロの動物カメラマンの旦那さんと、料理関係のブロガーの奥さんが,吠えぐせのある愛犬のために、一念発起、廃業したロサンジェルスの農園を買い取って自然農法の農園をたちあげる映画。
 その始めてから7年間の変化には目をみはる。もし、自然農法の本を読んだことがある人なら、実は、これはとっくに知っているプロセスなんだとおもう。
 つまり、ミミズが生ごみを分解してたい肥をつくる、被服植物が微生物のバランスをたもつ、一時的に害虫や害獣が増えても、やがて天敵が現れて、生態系をたもつ、といったことである。
 しかし、それが「現実に」うまくいくとかうまくいかないとか考えもしていなかった、というより、それが「現実」と地続きの何かであるとすら想像していなかったと、この映画を観ながら、気づかないわけにいかなかった。
 この映画を観はじめて最初の1時間ぐらいたったときでさえ、まあ、なんだかんだで、どこかで「現実的な」妥協をするんだろうなと思ってみている。
 ネタバレになるけど、コヨーテがうようよ集まってきて、鶏を殺し始めたあたりでは、こりゃもう駄目だな、コヨーテの駆除しかないよと思ってるし、それでも充分「自然農法」じゃん、と思って観ている。一般的に言ってそうでしょう。
 ところがそうじゃない。コヨーテを追い払うんじゃなくて、かえって、コヨーテの行き来を自由にすると、果木の害獣であるアナネズミの駆除をやってくれる。むしろ、コヨーテが足りないくらいだとわかる。
 7年目には、生態系に君臨する猛禽類が住み着くようになり、ついにエコシステムが安定する。
 かつては本しかメディアがなかった自然農法が今はネットで発信できるようになった。だから、その成果が、今回は旦那さんがプロの動物カメラマンということもあって、美しい映像で観ることができる。
 たった7年で、あんなセメントみたいな土地が緑の沃野に生まれ変わるのを目の当たりにできる。言いたいのは、つまり、今言った「緑の沃野」というような文字情報でしか表現できなかった自然農法の事実を、ネットのおかげで私たちは目の当たりにできる。「緑の沃野」という言葉は胡散臭くても、この映画で目の当たりにしているものはfactなのである。
 つまりは、こんな隔靴掻痒というか、奥歯にものの挟まったような文章を書きながら、何を考えていたのかといえば、福岡正信のことなのだ。
 この映画の自然農法を指導したアラン・ヨークのやり方と福岡正信と、どこか違うところがあるかと言えば、ほとんど変わらない。
 福岡正信は、むしろ海外でのほうが知られていたから、アラン・ヨークという人とも接点があったのかもしれない。そう思うほどよく似ていた。
 日本社会の病は、近代工業社会を神聖視してしまうことだろう。とっくにそこから抜け出さなければならないのに、「ものづくり大国」なんて価値観にしがみついている。
 その結果として、こうした自然農法なんかまでも、反政府的に見せてしまうのだろうと思う。
 インターネットは、そういうミスリードに対するカウンターになりうるのは事実だろう。
 しかし、こういう「純然たる事実」を目の当たりに見せられてもまだ、「近代工業社会」がフツーの社会なんだという迷信は、なにしろ、それが明治維新のときに、それまで1,000年以上続いて来た社会をぶち壊してまで手に入れた「成功体験」である以上、実際には、その成功以上に悲惨な体験もしているのだが、そちらのほうは置いといて、明治維新と高度経済成長をバイパスでつないで、「日本はエライ」とか思ってる人たちには、何物にも代えがたいことなのだろう。
 小泉構造改革とかが議論になっていたとき、金融資本主義を批判する人たちが守ろうとしていたことが「ものづくり」なのだった。「近代工業社会」から一歩も進めない頑迷さにすぎないことが、なにか「正義」のように言われていた。それを「リベラル」とさえいっていたように思うが記憶違いだろうか。
 日本社会は変わっていくだろう。ただ、その変化は十分に自覚的であることが求められるのだろう。どこへ向けて変わっていくのか分からない、盲目的な変化はおそろしい。そのためにも、私たちは今自分たちが立っている今を正しく認識する必要があるだろうと思う。
 
 
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