コロナ禍の美術展は、時間予約になったせいで混雑することなく鑑賞できる。実は、コロナが流行る前から、たとえば、草間彌生美術館とか、アーティゾン美術館とか、新しい美術館は事前予約をとるケースも増えてきていた。
草間彌生美術館なんかは何か月も前まで予約でいっぱいという状況だった。予約なしならその人数が一気に押し寄せるわけだから、予約制にして来場者数を均そうとするのはごく当たり前のことだった。
それについて思い出すのは、吉田健一がルーブル美術館を訪ねていたころは、ミロのビーナスの部屋のソファに座って、一日中瞑想にふけっていたっていう話。ただ人数が違っているだけの話かもしれないけれど、そのころの美術館は、「美の殿堂」としてゆるぎなく、そこに存在していた感じがする。
図書館が単なる書庫ではなく、知の殿堂として存在していたように、神殿が、神がいるにせよいないにせよ、神のいるべき場所として存在しているように、美術館は美のあるべき場所として存在していたように思える。
今、美術館はどういう場所なのか。信仰にとって神殿がどういう場所なのかを考えざるえないように、美術という行為にとって美術館とはどういう場所なのかを考えさせられる気分になった。茶にとって茶室とはどうあるべきかを千利休が考えたように、美術という行為の形式として美術館とはどういう場所なのかを考えさせられる気分。
村上隆の初期のころのこの三作品は、その意味ではもはや古典を観るようななつかしさがあった。これが世界中を議論に巻き込んだのである。
特に、≪My Lonesome Cowboy≫のスペルマの表現は、マスターピースというべきものだろう。
><私が思いつくのは長澤芦雪とか
葛飾北斎とか
雪村とか
のイマジネーション。
現代美術のスターという展覧会にふさわしいもうひとりは奈良美智。「写真撮ってもいいよ」っていわれても、「大丈夫です」ってことになる作家もいると思うが、奈良美智は撮りまくってしまう。
村上隆が近世や室町の日本画家たちにインスパイアされることが多い(蕭白とか)のに対して、奈良美智は昭和初期の日本の洋画家たちにいちばん親近感を覚えるのだそうだ。
竹橋の国立近美で片岡珠子展を観てきた。常設も観た。やっぱ自分は明治以後、大阪万博以前の日本人画家に特別なシンパシーを感じる・・・。
— yoshitomo nara, the washing hands man (@michinara3) May 13, 2015
2016年に、「奈良美智がえらぶMOMATコレクション」という展覧会があった。そのなかに
これがあった。松本俊介のこういうのも。
奈良美智が作る茂田井武展っていう美術展も、ちひろ美術館で観た。
奈良美智の目で見ると、日本美術史はまた変わって見えるのだろう。茂田井武展の図録にこう書いていた。
「学校で習う美術のつまらなさは、
それが自分の生活からかけ離れていたことだ。
僕は絵を描いたりしているが、
実を言うといわゆる名画よりも
生活する中で出会ったもの、
たとえば絵本から学ばせてもらったほうが多い。
そして僕の好きな日本の絵本作家たちは、
どこかしら茂田井武にその源流をみる気がする。」
李禹煥の「もの派」らしい作品を初めて観た。
草間彌生の小さめの≪無限の網≫を初めて観た。≪No.A≫。
それから、M.A.M.プロジェクトの方でシオンという人の≪審判の日≫という作品がよかった。