『17歳のウィーン』

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17歳のウィーン

 『行き止まりの世界に生まれて』、『mid90s』と単純に比較することはできないのはもちろんだけども、この映画も10代の成長譚には違いない。
 原作はローベルト・ゼーダーラーというオーストリア人の作家による『キオスク』という、ドイツ語圏で50万部を売り上げたベストセラー小説。それを、オーストリア人のニコラウス・ライトナーという人が監督し、主演のジーモン・モルツェもウィーン生まれという、オーストリア人によるオーストリア映画
 しかし、最初に言っておくと、『蜜蜂と遠雷』のときもそうだったけど、ベストセラー小説を映画化して、うまくいくってことは、まず、ない。特に長編は、ない。
 『サイダーハウスルール』みたいに、原作者のジョン・アーヴィング自身が脚本を書くとかなら別だけれども。
 『きみの鳥はうたえる』は、むしろ、小説より好きなくらいだけれど、あれは大胆に結末を書き換えているから。
 ああそういえば『共喰い』も好きか。今を時めく菅田将暉主演。青山真治監督。
 一概に言えないか。ベストセラーに限ればってことか。
 それはさておき、何を言いたいかというと、原作は未読なので分からないが、この映画をみるかぎり、ここにただひとり実在の人物として、ジークムント・フロイトが出てくる必然性がいまひとつわからない。
 舞台は1937年のウィーン。wikiで調べたら、フロイトがウィーンを脱出したのはその翌年だそう。遅きに失している。というのは、妹さんたちはホロコーストの犠牲者になってしまった。
 もっと早い時期に脱出のチャンスはあった。切ないのは、ユングが亡命の手助けを申し出たにもかかわらず、「敵の手を借りるぐらいなら・・・」云々と言って断ってしまった。
 これは、でも、推測するに、ユングがどうとかよりも、ウィーンという街への愛着の強さであったように見える。
 一度、アメリカ旅行をした後に体調をくずして、「アメリかのせいで体調が悪くなった」と愚痴ってたそうなのだ。
 フロイトの没年は1939年。ウィーンで死にたいという思いがあったのかもしれない。
 そのあたりのフロイトの思いが、映画ではあまり伝わらない。
 それともうひとつは、オーストリア第一次大戦の敗戦国なので、多額の賠償金支払いがひきがねとなって起こったハイパーインフレーションがある。年率1000パーセントをはるかに超えていたという。ツヴァイクが短編小説「目に見えないコレクション」に書いている、ひどい経済状況が市民の生活を直撃した。フロイト自身も財産のほとんどを失ったそうだ。
 このハイパーインフレナチスの台頭を招いたという言い方はできるみたいなのだ。ハイパーインフレで財産を失い、ナチスによって書物の発行も禁じられ、家族までも失うかもしれなかった、そういうウィーンに執着していたフロイトがせつない。
 そういうフロイトのウィーン愛が映画にはあまり反映されていなかった。どちらかというと、主人公のフランツの恋愛がメインプロットとなっている。若者の恋愛、老人の街への愛着、それをキオスクで売られている「もの」たち(例えば、葉巻、絵ハガキ、ポルノグラフィ)がつないでいかなければならないはずだったと思うのだけれど、そういうケミストリーが生まれていたとは思えなかった。
 最初に、『行きどまりの世界に生まれて』や『mid90s』を引き合いに出したのは、たとえ10代の恋愛をテーマに選んでも、結局、ナチスに行きついてしまう、その「行き止まりの世界」に生きている、かの国の人たちの心理に心が重くなったからだった。クリス・クラウスの『ブルーム・オブ・イエスタデイ』なんかでも、笑いながら、重石としてホロコーストがある。
 フロイトがフランツに向かっていう。「必要なのは、勇気と忍耐と、でなければ、愚かしさ。あるいはそのすべてかな」と。
 映画の公式サイトに、色んな人のコメントが載っている、その中に、風吹ジュンさんの「正しい言葉を沢山拾えているにも拘わらず、それでも違う答えを出すのが17才なのかも。」というのがあって、深くうなづいてしまった。風吹ジュンさんは10代のころ、けっこう苦労したらしいので、言葉が重い。
 しかし、フランツはどうすればよかったのか?。勇気?、忍耐?、愚かしさ?、あるいはその全部。全くの孤独なのに。ただ、若さだけでこの街に生きていけますか?。私たちはどうすればよかったのかという問いかけが聞こえてくる。
 心の柔らかな若者がいて、恋をして人生を生きるはずだった、そんな誰かに愛された街が無残に踏みにじられていく。架空の物語だけれども、結局、そういう風に終わるしかない物語が心に沁みついている、あの国の人たちの心の傷を思わずにいられなかった。結局、それは、私たちの傷にもよく似ている。