『ラストレター』の前に、岩井俊二監督が中国のキャストで、小説版『ラストレター』を原作に撮影した、中国版『チィファの手紙』が公開された。
ストーリーの骨格は、ほとんど古典的にしっかりしているので、その肉付けをどうしましょうかってあたりの違い、たとえば、クラシックのピアノの曲を、今回はどんな風に弾くのかなっていうような気持ちで楽しめる。
逆に言えば、そういうアレンジのちがう演奏を聴くことで、これはいったいどういう物語だったのかってことについての自分の理解が正しかったのかどうかを確認できる。
別のたとえ方をすると、ある彫刻作品に別の角度から光を当てると、また別の美しさが発見できるということかもしれない。
『ラストレター』は、主演の福山雅治が岩井俊二監督とラジオで語っていたように、あらすじを言ってしまうと実は何でもない話になってしまう。しかし、実際に映画で観ると、今回もそうだったけれども、客席から嗚咽の声が漏れる。
言葉では伝わらないことがちゃんと伝わる。そういうことの証明みたいな映画だと思う。
『ラストレター』のときもそうだったけれど、この映画の卓越しているところは、日本版では豊川悦司の演じた男と主人公の対話の場面。あの転調のシーンがなければ、映画全体がどこかにふわふわ飛んでいったかもしれない。実際、あのシーンだけ色調も変わる。コントラストが高く、色温度が低くなる。
日本版が有利だったのは、あのシーンで『ラブレター』の主人公だったふたり、豊川悦司と中山美穂が起用できたことだった。
ある意味では「残酷」ともいえるし「コミカル」ともいえる。だからこそ、ストーリー全体に対する転調の効果がさらに効く。
中国版では、その手が使えないけれども、だからと言って、あのシーンに潜んでいる冒涜の破壊力は変わらない。
あの男に主人公は反論できない。それどころか、誰も反論できない。あの男が語っているのは「あらすじ」だから。もうおわってしまった一生の「あらすじ」にどうやって反論できます?。その「正しさ」を突き付けられて何ができます?。
結局、主人公もまたあの男であることが、日本版の『ラストレター』では『ラブレター』の主人公の豊川悦司が演じることで強い効果を生んでいた。
そして、タイトルのラストレターの意味でもある遺書の意外さについては、日本版の方の演出がすこし軽めで、観客を突き放す感じだったが、中国版では少しだけ丁寧になっている。ここは、あとに撮った日本版の方がブラッシュアップされているのだと思う。
もうひとつ、中国版と日本版の大きな違いは、男の子が、チィナン(日本版の未咲)の息子になっていた。公式サイトによると、ひとりっ子政策があったころの中国では、ちゃんとした家庭に弟がいるのは不自然だという事情があったらしい。が、これは、もともとの小説の設定なので、最初の構想に近いのだろう。
ただ、日本版のように、未咲のこどもがひとりっ子の方が、キャラクターに説得力がある。それに、男の子のエピソードも捨てがたいけれども、感情の焦点がひとつに絞られた方が伝わりやすい。
いろいろな点で後に撮った日本版の方が彫琢が進んでいる。ただ不思議なことに、同窓会のシーンは中国版の方がシンプルでわかりやすかった。
あとで考えると、これはやっぱり、松たか子って女優さんのポテンシャルがそうさせたのかもしれない。先に撮った中国版を雛形にできるわけだから、日本版では省エネで撮れたそうなのだけれども、捨てがたいシーンもあったということなのかなと。
細かな違いを探す楽しみもあります。例えば、同窓会を抜け出すシーン、中国版では正面から顔を写すのに対して、日本版ではバックショットじゃなかったかと思います。
後の展開を考えると、日本版のほうがいいのかなとも思いますが、そのシーンだけをとると、中国版の方がスッと入ってくる。
まあ、どちらか片方しか見てないって方は、両方観てみるこもをおすすめします。