1968.10.3早稲田大学での学生との対話。三島由紀夫43歳。
学生に自己と社会について問われて、社会は敵だと考えていなければ、小説なんて書き始める馬鹿はいない。自分の文学的才能が社会の言語になりうるのか、自分の内から出てきた言葉が、社会と関連しうるのか?、自分の中の、言葉のないようなところから生まれてきたものをどうして言語化できるかというところから出発した。
そして、それは、虚構の作品のなかでしか実現できないことを知っている。こういう(学生との対話のような)場所では、伝えることが不可能だと知っている。それではお前は今ウソをついているのかと言われると困るが、そうではない。
といいながら、そのあとのところはちょっとあいまいにごまかした感じだったが、しかし、もちろん、ウソをつくために、プロパガンダのために、わざわざ学生との対話を重ねているとは、よほどひねくれた人間しか思わないだろう。小説を書き始めたと同じ衝動で、学生と対話しているのだろうが、小説でと同じような確かさで、思いが伝わるとは期待してはならないと自戒しているということなんだろう。
それは、むしろ、誠実と言っていい態度だと思うが、ただ、言葉の上では,自分の思いは伝わらないというニヒリズムとなって出ているかぎり、言動が社会をドライブしていくような、言論人のような存在は指向されていなかったということなんだろう。
もうひとつは、1970.11.18、死の1週間前に自宅で録音されたインタビュー。これはNHKのアーカイブズではなく、新潮社のテープだそうだ。
三島由紀夫にとっての「戦後」。
当初、政治についてはいわゆるノンポリで、芸術至上主義的な態度に逃げていたが、次第に、お里が知れてきた。というのは、十二、三才のころに『文藝文化』を通して、日本浪漫派の近くにいて、「感情教育」を受けていた。「感情教育」という言葉は、つまり思想的な影響とはちがうという意味だろう。いくら三島由紀夫といえども、12.3歳で、思想も何もないわけで、それは、言い訳でも何でもなく、40代の作家として、しごく正直な回想だと思う。
しかし、「お里が知れる」というからには、その「感情教育」が、思想的影響なんかよりはるかに重いものだったとの思いもあるように見える。
日本文学の将来を聞かれて、日本の古典の言葉が体の中に入っているのは自分が最後だろう。これからは、日本でも西欧でも、同じく資本主義社会のなかで同じ思想を共有する時代になるだろう。ただ、自分はそっちには行けない。
インタビュアーのひとが海軍の出身で、海軍では正月に軍人勅諭を読み上げるときに、4,5ページずつ飛ばし読みしていたという話になったときに、三島は「海軍は昔から文明開化ですね」といい、自分は、陸軍の暗い精神主義の方が好きだというのだが、上の「感情教育」発言と併せて考えると、この人の盾の会などの活動は、多分に感情的だった、すくなくとも、文学的であって、政治的ではなかったと思えてくる。日本陸軍の暗い精神主義なんてものは思想なんかでありえない。
「戦後」に、解放感を感じなかったと言えばうそになる。しかし、何かしっくりこないものがあり続けた。その表出として盾の会があったのだとすれば、それは若いころ小説に向かった衝動とまったく同じだということになる。
少年、三島由紀夫に「感情教育」を施した日本浪漫派の蓮田善明は、終戦直後にまだ戦地にいた。連隊長を射殺し、返す刀ではないが、同じ銃で自決した。
三島自身の文學の将来について「まさか『豊饒の海』で終わりではないでしょう?」と訊かれて、「終わりかもしれない、すくなくとも新しいプランは何もない」と答えている。
「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス▽声でつづる昭和人物史~三島由紀夫5」あと1週間ぐらいはらじるらじるで聞ける。