『詩人の恋』は観るべし

 キム・ヤンヒ監督の『詩人の恋』は、公式サイトによると、去年の11月ごろから新宿武蔵野館で単館上映されていたらしい。いま、だんだん上映館がひろがりつつあるようだ。
 先日、2020年度の映画をふりかえって、30本の映画をお勧めしておいたが、もし、この映画を去年観ていたら、控えめに言っても、ベスト5のうちに入ったのは間違いない。
 『ポルトガル、夏の終わり』、『燃ゆる女の肖像』、『詩人の恋』に甲乙をつけがたいが、繊細さという点では、『詩人の恋』の脚本が際立っている。
 こういう映画を評して小津安二郎を引き合いに出すのは使い古されすぎているのは重々承知しているが、「今のシーン、小津でしたよね」ってところは確実にあった。しかも、すごく印象的だった。
 しかし、まあ、小津の話はやめにした方がよいにちがいない。キム・ヤンヒ監督が凡百の小津安二郎の亜流にすぎないとおもわれるといけない。
 キム・ヤンヒ監督は、2007年に撮った短編映画が評価され、釜山で受賞もしたものの、その後10年、自分の映画を撮る機会に恵まれず、映画製作から遠ざかって済州島に移り住んでいたのだそうだ。
 その済州島で詩人に出会ったことが、この脚本のインスピレーションになった。実際、最初の方に出てくる詩は、その詩人の作だそうである。
 韓国でまだ詩人という職業が存在しているとしたら奇特なことだ。それこそ、1970年代には、韓国の詩人と日本の詩人はつながりを持っていた印象があった。おそらく、日本と韓国が「近代」を共有していた最後の世代が彼らだったのだろうと思う。
 そういう意味での詩人はもう日本には存在していない。韓国で事情がちがうとは思えない。「詩人の恋」はよくできた邦題だと思う。「詩人」が絶滅しているとすれば「恋」も、その同じカテゴリーに属する言葉だろうからである。英語の題を直訳すると「詩人と少年」になるが、それだとテーマがぶれると感じる。韓国語の原題は読めないのが残念だが、そういった意味で「詩人の恋」はダブルミーニングになっている。「詩人の恋」は「これは恋ではない」という意味にもなるからである。
 「詩人と少年」としてしまうと、もうそろそろうんざりするほど量産されたLGBT映画のひとつにとられてしまうだろう。そういう見方もできる、かどうか、実際に観ていただければよいと思うが、それは例えば(と、ここでまた小津安二郎にふれてしまうが)『晩春』を父娘相姦の映画だというような批評なんかを鵜呑みにする人なら、そうもとれるというだけのことだと思う。
 しかし、そうもとれるのは間違いない。そうもとれるという二重性を最後まで、太く強い低音で残しつつ、観客をうらぎる美しい旋律で最終章を締めくくって見せたのは、まさしく「詩人の恋」というタイトルにふさわしかった。
 村上龍が、テレビで言っていたのか文章で書いていたのかは忘れたが、昔、といっても10年も前ってわけではないと思うが、「クルマがほしいとか、女がほしいとか、色んな欲望を究極に追い詰めて行ったら、最後に残るのは家族なんじゃないかと思う」と語っていたことがあった。誰もがほんとにほしいのは家族だというのだ。それを聞いたときは唐突な感じかしたものだけれども、今となっては、それがほんとうなのかもしれない、すくなくとも、時代の感覚はたしかにそれに近づきつつある感じがする。
 これを単なるLGBT映画だとしか観ないのは、少年セユンをとりまく少女のひとことのセリフと同じ見方だということで、そういう見かたをしてほしいと監督が望むなら、あのセリフは入れないと思う。
 キム・ヤンヒ監督が女性だとは、下のインタビュー動画を見て初めて知った。女性でなければ書けないだろうなと納得した脚本だった。女性に共感しつつ手厳しい。
 『はちどり』のキム・ボラ、『82年生まれ、キム・ジヨン』のキム・ドヨンなど、なんか韓国の女性監督が脚光を浴びた1年だったのかもしれない。



『詩人の恋』Q&A|The Poet and the Boy - Q&A