『ステージ・マザー』

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ステージ・マザー

 『アニマル・キングダム』、『世界にひとつのプレイブック』で渋い脇役を務めていたジャッキー・ウィーヴァーが主演した『ステージ・マザー』は、見逃してほしくない映画。
 この映画でのジャッキー・ウィーヴァーは、ひとり息子が『ミッドナイト・スワン』の草彅剛みたくなって縁遠くなっている母親の役。そんな息子の訃報が届くところから映画が始まる。
 旦那の制止をふりきって葬式の参列に赴いたメイベリン・メトカーフ(ジャッキー・ウィーヴァー)だったが、息子の経営していたゲイバーが存続の危機にあることを知って、その立て直しに乗り出していく。
 この1月の議会襲撃は、アメリカの民主主義に対する信頼を大きく毀損した。敗れたとはいえ、トランプは歴史的な多数の支持を得ていた。となると、議会を襲撃したあの連中がアメリカを代表していないとはいえない。
 アメリカのマッチョイズム、男性信仰みたいなものがトランピアンのイメージと結びついて、ある種の典型的なアメリカ人像が私たちの脳裏に住み着いた。
 メイベリン・メトカーフの旦那は、今のアメリカ人像としてあまりにもリアルなのだ。
 ジャッキー・ウィーヴァーが実はオーストラリア人で、この映画が実はカナダ映画だということも一考すべきかもしれない。属国と揶揄されるほどアメリカべったりな日本ほどではないにしても、カナダもオーストラリアもアメリカに親近感を持っていてもおかしくなかったはずである。
 しかし、トランプの4年間は、日本人だけでなく世界中の人たちの脳裏に、このメイベリンの旦那のようなアメリカ人の姿を生じさせた。メイベリン・メトカーフを演じたジャッキー・ウィーヴァーの圧倒的な存在感を輝かせているのはテキサスの旦那の姿だと思う。
 あらかじめ言っておくと、この映画の評価は、Rotten Tomatoesでもあまり高くないのだけれども、ジョージ・クルーニー監督、マット・デイモン主演の『サバービコン』でもそうだったが、アメリカの負の側面があまりにも生々しく描かれていると拒絶反応を起こす批評家が一定数いるらしい。
 話がそれざるえないが、日本翻訳大賞っていうのがあって、その創設者であり選考委員でもある柴田元幸さんが、アフター6ジャンクションってラジオでその第7回の選考作品について語っていた。中に『フライデー・ブラック』っていうアフロアメリカン作家の短編小説集があって、それはblack lives matterの状況を背景にした作品なのだそうだ。アメリカでは2018年に出版された本だそうだが、柴田元幸さんが驚いたのはその本のblurbと言われる帯の推薦文、4人の白人作家が書いているそれは、この作品の政治的なメッセージの部分をほとんどスルーしているそうなのだ。後でリンクを貼っておくので興味のある方は聞いてください。宇多丸さんも唖然としていた。
 こういうアメリカの状況を笑えた時期はもうとっくに過ぎ去った。差別による断絶や分断は世界中に広がっている。断絶をどうやって乗り越えていくかが世界的なテーマになっている。それが、この映画てばたまたまゲイの息子と母親の断絶になっているだけ。
 LGBT映画が花ざかりだった頃があった気がする。『ミルク』とか『キャロル』とか。そのころは、でも、まだ他人事だった気がする。今はもう彼らの孤独がふつうの人にまでひたひたと及んできている気がする。たとえば、今「ふつう」という言葉を使ったが、一瞬、「ふつうって言葉使って良かったんだったっけ」とためらう気分になる。「ふつう」が差別用語になりかねない。隣人が突然、DHCの社長みたいにヘイトを叫び始めるかもしれない。「ふつう」という幻想が蒸発してしまった。
 メイベリン・メトカーフはテキサスの教会で聖歌隊のリーダーをしている主婦だった。言い換えれば「ふつう」だった。それがゲイの息子の死によって「ふつう」でいられなくなる。「ふつう」に閉じこもろうとして、彼女も「ふつう」に閉じ込めようとする旦那と戦わざるえなくなる。LGBT映画で、意識高い系でなく、初めて素直に泣ける映画だった。

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