『SNS 少女たちの10日間』

 『ファーザー』と『シカゴ7裁判』の合間にうまい具合に上映スケジュールがはまったので観てみました。 
 宇多丸さんがアフター6ジャンクションで紹介してた時には、上映後にトイレで吐いてる女性がいたとかだったので、見るかどうか迷ったんですけど。
 チェコドキュメンタリー映画。3人の女優が12歳の少女に扮して、性的な目的で出会い系SNSにアクセスしてくる男たちの実態を暴いていく。なんと2458人の男たちがアクセスした。ちょっとYouTubeのりの悪趣味にも思えるが、パブリックな映画の体裁をとっているので、コンプライアンスに配慮して見せ方はギリギリフェアになっている。
 でも、途中から笑いが止まらなかった。男たちが幼すぎる。女の子たちとオフで会うとき、スマホクリトリスの図解なんて見せた奴がいた。ポルノ写真ですらない。図鑑にあるような解剖学的な図解を見せて、「これが君にもあって・・・」とか。
 これ笑わずにいられる?。SNSでコンタクトとってとりあえずデートにこぎつけてるのよ。クリトリスの図解って。
 なかにはワルぶってる奴もいた。でも、最後には問い詰められて、タジタジというのとも違って、ウソがバレた子供みたいになってしまう。西遊記の金角銀角みたい。ホントのワルなら12歳の女の子相手に強がらないんだろう。この男たちはたぶんジェンダー難民なんだろうって気がした。
 SNSもインターネットもなく、それどころかテレビもラジオもない時代、家業を継ぐのが当たり前で、セックスは、他人のも自分のも同じだと信じてる、そんな時代に生まれていたら、この人たちはなんとなく結婚して、嫁さんとだけセックスして生涯を閉じただろうって気がする。
 それで幸せだったかどうかわからないけど、男にも女にもそんなふうにジェンダーが割り振られていた時代があり、その時代のセックスは社会的な行為だったわけ。ジェンダーとセックスはそこでは矛盾なく結びついていた。もちろん、だから昔はよかったとは言えない。社会が性別で役割を押し付けてくる社会に住みたいかと言われれば、少なくとも大半の女性はNOというだろう。
 しかし、社会が押し付けてくるジェンダーを離れるということは、その価値観の典拠となったイスラム教、儒教キリスト教などの価値観も捨てるってことになる。ある社会の男女観がどの程度まで宗教に基づいているかは、怪しいところがあるが、その社会にそれが伝統だと信じる共通認識があるなら、それを捨てるには時間がかかるだろう。問題は苦労してそれを捨てたとしてその先にこのSNSがあるならやりきれないってこと。
 生まれ持った性欲は変わらない。社会からジェンダーを割り振られることが大人になることだったとしたら、大人になる術を失ったこれらの男たちが、インターネットという規律のない社会の、野蛮で手近なSNSというツールを、自分たちの性欲の捌け口とするのはほとんど必然だった。
 2016年に『スポットライト』っていう映画があった。ボストンだけで約80人の聖職者が子供たちに性的虐待を繰り返していたって事実を描いている。『SNS 少女たちの10日間』の男たちがおぞましいなら、カトリックという宗教もおぞましいってことになる。共通しているのは、現実社会からの甚だしい乖離。片方はインターネット、もう片方は神の国というヴァーチャルな空間に身を委ねているが、現実的な性欲は少年少女にぶちまけている。幻想と現実を結びつけてきているのが、教会かSNSかの違いだけ。
 『スポットライト』の神父さんたちに抑圧となっていたのはカトリックのドグマだったのだろう。だけど、この『SNS』の男たちを12歳の少女に向かわせているものはいったい何なんだろうと考え始めると憂鬱になる。一見、自由そのものが抑圧になっているように見えるからだ。
 ある幻想を現実に反映しようとするとき、それが性幻想でも宗教の理想でも、そこに差を生み出すのが個人の倫理にすぎないとして、その倫理観を作るのがその個人の属する社会であるはずだから、いったいどこで間違ったんだろうと途方に暮れる。
 フェミニズムプロテスタントに似てると言えるのだろう。どちらも現状に抗議はしたけれども、社会全体の設計図に持ち合わせはなかったわけだ。

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SNS 少女たちの10日間