『Arc アーク』観ました

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Arc アーク

 『Arc アーク』は、不老不死が技術的に実現された近未来を扱っている。この作品内ではDNAのテロメアの増殖を高度に制御することでその技術が可能になったと説明されている。ショーン・コネリーの『未来惑星ザルドス』の昔に比べると、科学的な説得力が増しているのだけれども、そういうことよりもSFとしての寓話性がどれくらい現代的かというところに注目してみると、1974年の『ザルドス』以上の結論にいたらなかったことに、はぐらかされた思いがした。
 というよりも、後半でまるで『ザルドス』と同じところに落とし込まれたので、そんな古い映画を思い出してしまったというのが正しい。
 前半部分と後半部分がつながっていないと感じる。前半部分はすごくよかった。ざっとあらすじに触れると、芳根京子演ずるリナは17歳で出産した子に愛情を抱けず、わが子を病院に残して失踪してしまう。19歳の時、ダンスのサイファーのようなところで踊っているのを、寺島しのぶ演ずるエマに見初められ、彼女が代表を務めているボディワークスという会社で一緒に働くことになる。その会社は死体の体液を置き換えることで、生前の姿を永遠にとどめるサービスを行なっていた。
 ここまでの描写は素晴らしい。最初の芳根京子のダンスは、わが子に愛情を抱けなかった自分に対する鬱屈が表現されていた。そして、そのダンスに才能を見出したエマ(寺島しのぶ)が、死体をポージングする「儀式」というのか「施術」というのか、映画では正確に説明されていないが、死体につながった無数の糸を彼女が手繰ることで死体の姿を固定するのだけれども、これは、寺島しのぶと死体役の役者さんとのアンサンブルのダンスなのである。これが見事としか言いようがなかった。芳根京子寺島しのぶの後継としてこのダンスを受け継ぐことになる。
 愛おしさを感ぜられず、わが子を捨ててしまったリナ(芳根京子)が、失った誰かを永遠にとどめたいと思う誰かのために舞踏を踊って、そのカリスマになっていく。その矛盾が美しいと思ったし、それがこの映画の魅力だと思えた。
 ところが、寺島しのぶが軸になっていた前半から、不老不死の技術が軸になった後半では、ドラマの質が変わってしまったように思えた。
 このSFが単なる夢物語でないと感じられたのは、17歳で出産したリナがわが子を捨てる、その心理の現代性だったと思っていたので、後半、小林薫風吹ジュンが出てきたあたりからの、ありきたり感に驚いた。17歳で子供を産んで100歳になってるリナだから、ここまで書けばネタバレも何も、後の展開は想像できるはずと思うが、たぶん、あなたの今想像したその通りだ。
 17歳で出産したばかりのわが子に愛おしさを感じられなかったその思いが、SFであれ、コメディーであれ何であれ、その後の展開でどう昇華されていくかがストーリーの骨格であるはずだったと思う。人の死者を思う心に触れ、不老不死を拒む人たちにも出会い、不老不死を人類で初めて経験しながら、そのテーマが全く置き去りにされてる。その結果として小林薫の演技が浮きまくってる。
 「あ、ごめん、知らなかった」じゃないし。
 遡って、前半部分のエマ(寺島しのぶ)のパートで死者としてわが子が現れたらどうだっただろうか。その頃ならリナの子は中学生くらいだったはずだ。死産の子が持ち込まれるシーンはあった。しかし、観客はそこで初めてリナのトラウマを知ることになるだけだから、あのシーンが代償にはならない。
 振り返ってみると、リナを不老不死に導いた天音(岡田将生)との別れの時も、苦悩する彼をリナはドア越しに窺うだけだった。17歳の時からリナの内面は全然進歩していない。
 ダンスという縦糸もどこかに消えてしまう。どうなんだろうと思った。前半部分がすごくよかっただけに、ええっ?て感じだった。
 不老不死なんてゲーテの『ファウスト』の時代から、使い古されている。今回の場合は、「誰も愛せないのに」という条件付きなのが興味深かったし、今日的だと思ったそのテーマが全然展開しなかったのが残念だった。
 石川慶監督は、日本で大学を卒業した後、ポーランドの映画学校に留学していたって人で、今回の撮影監督もその頃からの盟友でピオトル・ニエミイスキという人で、この人の映像感覚に支えられている面も大きいのだろうと思った。
 繰り返しになるが、「愛なき不老不死をどう生きるか」は、人生100年時代と言われている今の日本人にとっては、実はSFがとまで言えない。そういうテーマを冒頭に提示しながら、その掘り下げがあまりにも浅薄だったと思う。

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